古代中国では、友情の印として、友達同士でお気に入りの物を贈り合う習慣がありました(製図:看中国/志清)

 古代中国では、友情の印として、友達同士でお気に入りの物を贈り合う習慣がありました。唐王朝期の名将・李勣(り・せき)には大事な部下が三人いました。この三人の部下とのお別れの時のことでした。二人の部下には贈り物を渡したのですが、中でも最も目をかけていた一人の部下には何も贈りませんでした。それは友情を感じていなかったからなのでしょうか?

 貞観元年(紀元627年)、李勣は并州(現在の山西省一帯)の都督に任じられた時、張文瓘(ちょう・ぶんかん)はその軍事参謀に勤めていました。李勣は「張稚圭(張文瓘の字)は将来性があるので、私をはるかに超える出世をするだろう」と感嘆し、張文瓘を非常に重用していました。その他二人の部下のことも大事にしていました。

 ある日、李勣は京への赴任を命じられました。大事にしていた三人の部下と別れを告げる時、李勣は部下の一人に佩刀を、もう一人に玉帯を贈りましたが、張文瓘には何も贈りませんでした。

 張文瓘は李勣を二十里以上(1万メートル)先まで見送りました。李勣は、「ときに、『どこまで送っても、結局はお別れしなくてはならない』と言うのに、なぜこんな遠くまで送ってくれたのでしょうか。もうこの辺で十分ですよ」と言いました。

 張文瓘は、「私たち三人は、都督に同じく大事にして頂きました。あの二人は都督から贈り物を頂いたので帰っていきましたが、なぜ私にだけ何も贈って下さらなかったのか、とても気になります」と答えました。

 李勣は、「わが張君よ、気持ちを塞ぎこまずに聞いてください。あの二人のことですが、片方が優柔不断なので佩刀を与えました。もっと決断力を養えという戒めの意味を込めた贈り物です。もう片方が放蕩三昧だから玉帯を与えました。もっと慎み、身を整えよと戒める意味を込めた贈り物なのです。しかし張君は、博学多才な者で、うまく処理できないことはありません。申し分の無い張君に、何もよけいに与える必要がないのでは?」と言いました。

 京に着いた李勣は、朝廷で張文瓘を推薦し続けたため、張文瓘は昇進を重ね、皇帝の側近の「侍中」という官職まで昇進できました。

 李勣の贈り物は部下への気遣いのようなものでした。しかし、張文瓘に対しては、部下ではなく、尊敬できる友人として接していました。友達同士の間で一番大切なのは贈答品ではなく、心なのです。

 中国ではよく「君子の交わりは淡きこと水の如し」と言います。君子たちの間には物質的な交流がないと思っている人もいますが、それは大間違いです。実は、君子は物欲に負けず、君子同士の友情を物に頼らず、飲み食い仲間をしませんが、大事なときに、相手のために命さえ惜しみなく捧げることもできます。これこそ、真の君子同士の友情たるものなのです。

 李勣は張文瓘に物一つ与えませんでしたが、本当の意味で力になってくれる存在でした。物では代えられない重要な場面・朝廷で、張文瓘のことを推薦し続け、出世のルートを与え、才能を発揮させました。このような事は真の友情があってこそ、なせることではないでしょうか。

 君子の交わりは心にあるのです。真の君子の友情とは、真に心から相手のためになるものなのです。

 中国語原文:

 又貞觀元年,績為并州都督。時侍中張文瓘為參軍事。績曾歎曰:“張稚圭后來管蕭,吾不如也。”待以殊禮。時有二僚,亦被禮接。績將入朝,一人贈以佩刀,一人贈以玉帶,文瓘獨無所及。因送行二十余里。績曰:“諺云,千里相送,歸于一別。稚圭何以行之遠也?可以還矣。”文瓘曰:“均承尊獎,彼皆受賜而返,鄙獨見遺,以此于悒。”績曰:“吾子無苦,老夫有說。某遲疑少決,故贈之以刀,戒令果斷也;某放達小拘,故贈之以帶,戒令檢約也,吾子宏才特達,無施不可,焉用贈焉?”因极推引。后文瓘累遷至侍中。(『太平廣記・知人一・李勣』より)

(文・張君/翻訳・松昭文月)