一、道昭の生涯について
遣唐使の中に、三蔵法師から直伝を受け、寝食を共にした愛弟子がいました。それは道昭(道紹、道照とも)という留学僧でした。
道昭(629〜700年)は河内国(現大阪府)出身の法相宗の僧で、653年、第二次遣唐使の一員として入唐し、長安で三蔵法師に付いて経・律・論(経典・戒律・仏教学)のいわゆる三蔵を広く学びました。その後、三蔵法師の紹介により、禅宗第二祖の慧可禅師の弟子である恵満に参禅し、禅の真髄も学びました。
660年頃に帰朝の際、道昭は玄奘訳の経論・禅籍を数多く持ち帰り、飛鳥寺の一隅に禅院を建立して住居とし、禅を広め、諸々の経典を説きました。晩年には、全国を遊行し、各地で土木事業を行いました。700年に72歳で没した際、遺命により日本で初めて荼毘に付されました。
二、三蔵法師と寝食を共にした
『続日本紀』には、文武天皇4年(700年)の道昭が没した年の条に、道昭が入唐した後、三蔵法師に就いて勉学したことについて、以下のような記述があります。
入唐した道昭は三蔵法師の弟子となり、特に可愛がられ、同じ部屋に住まわせました。三蔵法師は「昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞う所もなかった。そこに突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨を私に与えて食べさせてくれた。私はその梨を食べてから気力が日々健やかになった。今、お前こそはあの時の梨を与えてくれた僧と同様だ」と言ったという内容です。
玄奘は異国の弟子をとても大切にし、過去に出会った恩人の僧と同じように、道昭により多くの人を助けてほしいとの思いがあったのではないでしょうか。
更には、三蔵法師が「経論は奥深く、究め尽くすことは難しい。それよりお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのが良かろう。」と言ったこと、そして、道昭はその教えに従い、禅定を習い始め、悟るところが多かったことも記述されています。
三、師との別れについて
『続日本記』の中には、道昭と師の別れについても記述されています。
唐で8年間過ごした後、帰国する日がやって来ました。別れの際、三蔵法師は道昭に、仏舎利(釈迦の遺骨)と多数の経論を授け、「道を弘めよ、これらの経論を託す」と言いました。
三蔵法師は17年かけ、西域を経て膨大な仏法経典(657部)をインドから中国にもたらしました。そして、帰国してから入滅するまでの19年間、三蔵法師は経典の翻訳に余生を捧げ、75部1335巻にも及ぶ経論を極めて精緻な漢語に訳しました。自ら訳した経論を道昭に託し、日本で道を弘めてほしいと、三蔵法師は願っていたのです。
更に、三蔵法師は西域から持ち帰った鍋も授けました。三蔵法師は「これは西域から持ち帰ったものだ。薬を煎じると必ず病気が治り、霊験のあるものだ」と言いました。道昭は師に拝謝し、涙を流しながら別れを告げました。帰国の途中、多くの人が病気にかかり、道昭はその鍋を取り出し、水を温めて粥を茹で、病気に苦しむ者に与えました。船が難航する日々もあり、「もしかすると、海神竜王がその鍋を欲しがっているからではないか」と言う人がいました。道昭は三蔵法師から授かった鍋を惜しみながらも、船の皆の命と託された経典を守るため、仕方なく鍋を海に投げ、竜王に捧げた、という内容でした。
自らの長い旅の経験により、厳しい帰国の途に必要とされる鍋を道昭に与えたことから、三蔵法師の弟子に対する優しい心遣いが感じられます。
まとめ
『続日本記』道昭伝の最後に、禅院の移建とそこに所蔵される経論について記されています。それは、「(道昭が亡くなった後の)和銅4年8月(711年)、弟子達は新京に禅院を作りました。禅院には多くの経論が有り、書体が良好で、錯誤がない。全て道昭が持ち帰ったものだ」というものです。
禅院に所蔵されている経論は、道昭が三蔵法師から経論を直接託され、帰路の際の難航時に、貴重な鍋を海中に投げてまで守ってきたものです。唐から持ち帰ってきたこれらの経典が、後世に与える影響が大きいことは言うまでもありません。
先人たちの仏法を弘める切願、そして、そのために払ってきた努力が我々に大きな恩恵を与えてくれたことに感謝しながら、日々の生活を送りたいものです。
参考文献:『道昭伝考』水野柳太郎
(文・一心)