四字熟語の「四面楚歌」をご存知でしょうか。その由来は、項羽、韓信、そして劉邦などの人物を輩出した楚漢戦争、中国の歴史で最も有名な戦争の一つです。今日は、その楚漢戦争にまつわる物語をご紹介します。
紀元前202年、激戦を繰り広げてきたのは、項羽の率いる楚軍と劉邦の率いる漢軍です。漢軍は負け戦続きでしたが、恵まれた戦力と補給源のおかげで、戦場で生き残る条件としてはかえって楚軍より有利な状況でした。そこで、食糧不足である中、劉邦の父・劉太公を人質と取っていた項羽は、広武の地で劉邦と一年近くの対峙をしてきました。
同年8月、項羽は劉邦からの提案を受け、鴻溝(現在の河南省滎陽市を跨ぐ運河)を境界として、「天下を半分ずつ分けて、鴻溝より西を漢のものとし、東を楚のものとする①」という、お互いに侵略しないという約束を交わしました。
項羽は約束に従い、人質を解放し、東へ撤退しました。一方、漢軍では、張良と陳平が劉邦にこう助言しました。「今、我々は天下の領土の半分以上を持ち、各地の諸侯たちも本陣に加わってきます。しかし、項羽の軍隊は食糧が切れる寸前であり、楚の滅びの天象も表されています。楚軍の兵力の再整備し、脅威になることを防ぐため、我々は今のうちに楚を殲滅すべきではないでしょうか」
劉邦はこの助言を聞き入れ、楚軍を攻撃すると決めました。しかし、劉邦が持つ軍力だけでは足りないため、劉邦は斉国と魏国に使節を派遣し、斉国の韓信と魏国の彭越と共同で楚軍を攻撃する軍隊を派遣するよう要請し、参戦を約束しました。
同年10月、劉邦軍は陽夏(現在の河南省周口市太康県)まで進軍します。劉邦が約束を破ったことを知った項羽は、10万人の軍隊を率いて劉邦軍に反撃しました。韓信と彭越の援軍が到着しなかった劉邦軍は、項羽の攻撃に抵抗できず、城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹しました。両軍の対峙が再び始まります。
この時、韓信は斉国から南へ進軍し始めました。破竹の勢いのごとく、韓信軍は彭城、蕭(現在の江蘇省北部の蕭郡)、酇(現在の河南省東部の永城の南西)、苦(現在の河南省東部の鹿邑の東)の楚軍を次々と撃敗し、楚軍の後方まで攻め、劉邦軍とともに楚軍を挟み撃ちにできました。11月、韓信は斉軍と漢軍を率いて、楚軍を東に追い込みます。楚軍は敗北し、垓下(現在の安徽省霊壁県の南東)まで撤退しました。
項羽は、韓信が率いる30万人の斉漢連合軍と垓下で決戦を始めようとしました。韓信側も、左側に孔将軍、右側に費将軍、そして韓信自身が中央軍の主将と、念入りに布陣しました。
垓下の戦いが始まります。韓信は自ら先頭に立ち項羽軍と戦い、後方に下がり、項羽軍を追撃させます。しかし、項羽軍が陣地の中心に入ると、左右両側から進軍した孔と費二将軍の包囲網に入ってしまいました。韓信が率いる中央軍も再び攻撃をすると、劣勢になった楚軍は大敗し、三面から包囲されました。敗れた楚軍は垓下の防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲しました。
そんなある日の夜のことです。楚軍の士気を下げるために、韓信は心理作戦を使用し、楚軍の故郷の歌を歌うよう、楚軍を包囲する漢軍に命じました。
楚軍のいたるところに楚の歌が響き渡りました。悲しみと哀愁が溢れた歌声を聞いた楚の兵士たちは、故郷を思い出さずにいられませんでした。いつも意気盛んな項羽まで、戦意をなくしてしまいました。
破滅の天運を悟った項羽は、戦の中でいつもそばにいる最も愛する妾・虞美人に対し、あの『垓下の歌②』を歌い、涙が止まりませんでした。虞美人も、挽回できない形勢に気づき、「周りでは楚の歌ばかり聞こえて、大王(項羽)も戦意を失っているのに、私がどうして一人で生き長らえるのでしょうか③」と返歌しました。
項羽は馬に乗り、数人の兵士を連れて、包囲網から脱出しました。烏江(現在の安徽省和県烏江鎮)に着いたとき、項羽は江東の人々に合わせる顔がないとため息をつき、川のほとりで自らの首を刎ね、非業の死を遂げました。
項羽は24歳の年で叔父の項梁と一緒に戦い始め、向かう所敵なしの豪傑でした。野心が果たせなくなった覇王の項羽は、僅か31歳で歴史の舞台から引き去りました。
項羽の死後、5年間も続いた楚漢戦争も幕を閉じ、天下は再び統一されました。戦争で勝利を手中に収めた劉邦は、やがて皇帝に即位しました。中国の歴史はこの戦争をもって、漢王朝という新しい頁を開きました。
註:
①中国語原文:中分天下,割鴻溝以西者為漢,鴻溝而東者為楚。(『史記・項羽本紀』より)
②力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!(我が力は山をも引き抜き、気は世をも蓋うというのに、時勢は不利で、騅も進もうとしない。騅が進まぬことを、我はどうすることもできない。虞や、虞や、我はそなたをどうすればよいのだろうか。)(『史記・項羽本紀』より)
③中国語原文:漢兵已略地,四方楚歌聲。大王意氣盡,賤妾何聊生。(『楚漢春秋』より)
(文・黄容/翻訳・宴楽)