日本では、節分に「豆を撒いて鬼を追い払う」という風習がありますが、これは大晦日に行われる追儺(ついな)という宮中行事が元となっています。
一、「追儺」のルーツ
「追儺」とは、古代中国で宮中で行われていた疫神を追い払う行事が日本に伝わったものです。中国では「追儺」のことを「儺」又は「大儺」と言っていました。「儺」という言葉は現代の中国語ではあまり使われなくなっており、その意味を知っている人も少なくなっています。
「儺」は元々『論語』に登場していた言葉で、その『論語」に注釈を施した本『論語集解』(※1)においては、「疫鬼を駆除する」ことを意味しています。疫鬼は、中国に伝わる鬼神の事で、疫病を引き起こして人間を苦しめる行疫神だと古代の人々は認識していました。この儀式は隋王朝の時代では、年に3回(春、秋、冬)宮中で行われており、その後の六朝時代からは大晦日(旧暦12月30日)にのみ行われるようになりました。
儀式の内容については、『周礼』(※2)という書物の中に記述があります。その内容は、「大儺」を行う時、皇帝の前で「方相氏という官職の人が、熊の皮を手につけ、顔に四つ目の面をかぶり、黒い着物と赤い袴を纏い、手には矛や盾などの武器を持ち、疫鬼や魑魅魍魎を追い払った」というものです。
「大儺」儀式は中国の各王朝に継承され、行われてきましたが、清朝末期になると、戦乱の頻発より衰退し、1949年、中華人民共和国が成立後、「害ある迷信」と見なされ、中国文化から完全に消えていきました。
ニ、日本への伝来
かつての中国で行われた「大儺」が日本に伝わり、「追儺」(※2)と改称して宮廷の年中行事となりました。
「追儺」は飛鳥時代に既に行われていたことが『続日本紀』に記されています。これによれば、文武天皇の慶雲三年(七〇六年)、「 全国に疾病が流行り、 人民が多く死んだ。そこで初めて土牛を作って大儺をおこなった」とされています。
『延喜式』(※3)等によると、宮中では毎年大晦日の夜に、大舎人が方相氏に扮して、疫鬼を追い払い、その格好は黄金の四つ目の面を被り、黒衣に朱裳を着し、右手に矛を、左手に盾を持っていました。そして、平安後期になると、方相氏は、疫鬼を追い払う英雄から追い払われる鬼の役割に変わり、疫鬼を追い払う主役は上卿や殿上人などが担うようとなりました。
三、節分豆まきの登場
日本では、宮廷の行事としての「追儺」はやがて消失しましたが、それを源流とする「節分の豆まき」という習俗が登場し、民間で盛んに行われるようになりました。
節分はそもそも、立春、立夏、立秋、立冬、それぞれの前日のことを意味しているが、現在では、特に立春の前日である2月3日若しくは4日を指す場合が多いです。また、節分の豆まきがいつ頃から行われるようになったのか、明確な時代は不明のようですが、少なくとも江戸時代にはその風習が完全に定着したとされています。
今の豆まきは「鬼は外、福は内」の元気な掛け声と共に豆をまいて邪気を家から追い出し、幸せがやってくることを願う行事であり、ここで言う「鬼」とは「疫鬼」である事を強調し、覚えておきたいものです。
今、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るっています。新型コロナウイルスは2年前から流行し始めたCOVID-19株から、デルタ株に、更には今のオミクロン株へと変異してきました。最新の統計によると、全世界における感染者数は既に3億2600万人に上り、死者数も550万人に達しています。人類は古くから「疫病神」に様々な方法で抵抗してきましたが、その戦いは今も続いています。新型コロナウイルスが一日でも早く終息するよう、願いを込めて、2022年の節分の豆まきをしたいと思います。
(※1)『論語集解』 中国後漢末期から三国時代の魏の儒学者である何晏等によるものとされる『論語』の注釈書。
(※2)『周礼』 儒教経典(十三経)の一つで、『礼記』『儀礼』とともに「三礼」を構成する書物である。
(※3)『延喜式』 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つであり、律令の施行細則をまとめた法典である。
(文・一心)