唐宋八大家の一人である蘇洵(看中国/Vision Times Japan)
中国の歴史上、最も著名な文学者を挙げるとすれば、唐宋八大家(中国唐代から宋代にかけての8人の文学者)が挙げられる。この八大家の中に、蘇洵(そじゅん、1009-1066)とその息子の蘇軾(そしょく)、蘇轍(そてつ)が含まれており、一般的に蘇氏三父子が三蘇と呼ばれている。
若い頃の蘇洵は、あまり勉強が好きではなかった。一日中何をするでもなく仲間と一緒に遊んだりして過ごしていた。どんな仕事をしても長続きしないのが常だった。このように無駄な時を過ごし、いつのまに27歳になった。
ある晩、蘇洵はある老人が川岸に立っている夢を見た。その老人は一本の傾いている木を指しながら、「この木を立て直さなければ、殆どの木が傾いてしまうであろう」と述べてから忽然と消えた。
蘇洵は、老人の言葉が自分に何かを悟らせようとしていると感じ、急に目が覚めた。その後、彼は大いに悟るところがあり、熱心に勉強を始めた。当時、27歳で勉強を始めるというのは、既に遅すぎる年齢であった。
しかし、負けず嫌いの蘇洵は勉強を始めてからわずか1年たらずで科挙を受けたが、結果は、残念ながら不合格であった。しかし、彼は失望したり諦めたりはしなかった。むしろ勉強が容易ではないことを痛感し、勉学に一層邁進した。彼はそれまでの自分の勉学不足を反省し、今後は科挙を受験しないことを決心した。過去1年の間に書いた文章を全部焼き払い、ただひたすら勉強に励んだ。科挙に合格するための勉強ではなく、本当に立派な人間になりたかったのである。
蘇洵はそれから6年間、毎日本を手離さないほど熱心に勉強した。その結果、急速な進歩を遂げ、筆をとると自分の思い通りの文章や長文の論文も書き上げることが出来るようになった。
1057年「嘉祐(かゆう)2年」、蘇洵は科挙を受験する息子の蘇軾と蘇轍を連れて京城の開封(かいほう)を訪れた時、自分がそれまでに書いた「幾策」、「権書」、「衡論」など22篇を当時の文壇の泰斗(たいと その分野の第一人者)であった欧陽修(おうようしゅう)に見せた。
文章を読んだ欧陽修は蘇洵の優れた才能を賞賛し、その後、宰相の韓琦(かんき)に彼を推薦した。韓琦も蘇洵の文章を読むと、彼の才能に敬服した。また、蘇洵の2人の息子は若いにもかかわらず優秀な成績で進士(しんし 科挙の六科のひとつ)に及第したため、蘇氏一家は一躍有名になった。
蘇洵の名は天下に広く知られ、彼の書いた本は多くの人に愛された。当時、多くの文人たちが先を争って彼の文章を模倣したため、当時の文章の作風を大幅に一新させることになった。
一方、蘇洵の息子の蘇軾、蘇轍も当代最高の文学者として尊敬された。特に、東坡居士(蘇東坡とも呼ばれる)という名称で有名な蘇軾は、中国の歴史上、最も優れた才能を持つ文学者として知られている。
(文・蓮成)