古代中国の王朝では、皇帝の後継者の選択と皇位の継承は、王朝と国の安定に関わることであり、宮中の最大の議題でした。
皇帝継承の歴史において、最も広く知られている噂は、清王朝の雍正帝が康熙帝の遺詔(いしょう)をもって皇帝の座を簒奪したということです。その時代で起こった九人の皇子が皇位の継承権を争う「九王奪嫡(きゅうおうだっちゃく)」の事件は、中国史上最大の皇位継承の争奪戦でした。民間話や野史によると、康熙帝は十四男の胤禵に皇位を譲ることになっていましたが、雍正は当時の大臣ロンコド(漢字:隆科多)の手を借りて遺詔を改ざんし、「伝位十四子(十四男に皇位を譲る)」から「伝位于四子(四男に皇位を譲る)」に改ざんしたとされていました。
しかし、雍正は本当に簒奪に頼って王位についたのでしょうか。実は、「遺詔の改ざん」に関する噂話は、現代だけでなく、当の雍正帝本人の耳まで届いたのです。雍正帝の十の罪状を挙げる人もいました。しかし、今、康熙帝の遺詔の原本が発見され、雍正帝の無実が証明されました。これは康熙帝が四男の胤禛(雍正)を皇太子に指名した勅令で、中国第一史料館に所蔵する貴重な史料です。
遺詔は三つの部分に分かれています。第一部では、康熙帝の執務理念が語られています。第二部では康熙帝から雍正帝への継承の具体的な内容が表現されており、最も重要な部分になります。雍親王の四男である胤禛は、高貴な人格者で、忠実で親孝行に努め、皇位を継承して皇帝になることに相応しい皇子であると、この勅令にはっきりと書かれていることがわかります。第三部は、葬儀に関する規制が書かれています。遺詔は、漢文(中国語)と満文(満州語)で起草され、二つの言語を組み合わせたものです。
つまり、遺詔を改ざんしようとしたら、中国語の部分だけでなく、満州語の部分をも変える必要があります。しかし、清王朝では間違いなく繁体中国語を使用しており、簡体中国語の「于」は「於」で書かれているはずです。そして満州語の部分で変更することはより一層難しいのです。なぜなら、表音文字である満州語は、おたまじゃくしのように曲がっているもので、修正は一切できません。百歩譲って、満州語の変更ができたとしても、皇位継承の文書の書き方や形式から見ると、14番目の皇子に皇位を引き継ぐという詔書では、「十四子」の前に必ず「皇」という文字を付けなければなりません。「皇十四子」を「皇四子」に変えることはそう簡単にできるはずがありません。そしてそもそも、「伝位十四子」も「伝位于四子」の文字も、遺詔の原本にはありませんでした。
では、なぜ民間ではそこまでして雍正帝を誹謗中傷したのでしょうか。その最大の理由は、十四皇子の胤禵を擁護した八皇子の胤禩を中心とする結党「八爺党(八皇子党)」が、雍正帝の継承に納得がいかなかったため、でたらめな噂を流出したとされています。また、雍正帝が即位後に実施した新政策に対し、多くの貴族を怒らせたため、雍正帝の皇位は簒奪によるものだという噂が出たとされています。
史実から見ると、康熙帝の選択は正しかったのです。雍正帝は史上まれにみる勤勉な皇帝でした。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分でコメントを出していました。国民のため、清王朝の存続のために働き続けてきた雍正帝は、その功績で評価されました。これもまた、雍正帝を選んだ康熙帝が明君であることを証明できました。
(翻訳・金水静)