古代の女子(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 自分を喜んでくれる者のために化粧し着飾る。これは古今東西の女性の共通点と言っても過言ではないでしょう。古代中国の女性たちにとって、化粧に必要不可欠な物とは、化粧小箱「奩(くしげ)」なのです。今回は、その奩の軌跡を探りたいと思います。

 起源が西周に遡る「奩」は、秦漢王朝期で盛んになり、明清王朝期にピークに達し、独特な奩文化をも形成しました。

 西周時期の奩は青銅製が多かったです。戦国時代になると、漆器の普及に伴い、色鮮やかで軽めな一重漆器奩が人気でした。そして秦漢王朝期になると、貴族階層は美への追求が高まり、身だしなみ用品と化粧品の種類が多くなってきたため、一重の奩も次第に多重になり、複数の枠のある「多子奩」が出現しました。

 「多子奩」の出現は、中国のものづくりが追求する「器を以て道を載せ」の思想に適しています。「多子奩」は、化粧品の種類の増加に対応できたほか、当時の価値観と美意識の体現でもありました。一つの大きな「母奩」は複数の「子奩」を内包していることは、子孫繁栄を意味するとされていました。奩の持ち主の社会階級、地位、化粧の洗練度により、「子奩」の数量が異なり、「三子奩」、「五子奩」、「七子奩」、「九子奩」がありました。

 数多くある奩の枠でも特別な一枠は、鏡を入れる枠です。

 ガラスの鏡が中国に伝来する以前、顔を映して見るために、古代中国人は主に青銅鏡を使っていました。『天工開物』の記載によると、青銅鏡は顔を映せるのは、鏡面に塗られた水銀が光を反射させた効果であり、青銅自体の効果ではありません(註)。そのため、青銅鏡は長時間空気に触れると、鏡面がくすんで見えなくなってしまうという欠点があります。青銅鏡の使用期間を長くするために、古代中国人は青銅鏡を奩に入れ、使う時だけ取り出しました。

 ただし、髪をとかすときや顔の手入れをするときに、青銅鏡を手で持つのは非常に不便です。身だしなみをもっと便利にすべく、鏡台と鏡立てが誕生しました。東晋の画家・顧愷之の名作『女史箴図』では、当時の鏡の使用方法に、「手に持つ」と「鏡台に置く」という二つの方法があったことが明らかです。

 青銅鏡、化粧品と身だしなみ用具を入れる奩は、いつも鏡台とペアで登場します。唐王朝期中葉以降、日常生活を描写するリアルアート絵画では、奩と鏡台が同時に登場する場面が多くあります。

 宋・元王朝期、脚の長い家具が流行になり、四角に作られた精緻な「椅枠式」鏡台がトレンドになりました。奩もいつも鏡台のそばにありました。しかし、質素な椅枠式鏡台は、豪華な外観を追求する貴婦人たちの反感を買いましたので、職人たちは「宝座式」鏡台を創り出しました。宝座式鏡台には多くの引き出しがあり、様々なものを入れることができます。これは奩と鏡台の初めての融合になりました。数千年にわたって丸い形だった奩も生まれ変わりました。

 明清王朝期、奩のデザインはさらなる大きな変化を遂げました。上面に折り畳み式の鏡台が搭載する箱型の奩が誕生しました。鏡台は上面に置くこともできますし、取り外しも可能になり、折り畳んで収納することもできます。今まで、一緒に使用され続けてきたにもかかわらず、ずっとそれぞれ独立していた鏡台と奩は、ようやく一つになりました。その名は「鏡奩(きょうれん)」です。

 清王朝期中葉、ヨーロッパ産のガラス鏡が中国に伝来しますが、鏡奩の人気は減ることなく、ガラス鏡の鏡奩が大人気になりました。そこに、奩の上面の裏にガラス鏡を設置し、蓋を開けると鏡が立ち、蓋を閉めると鏡が収納される「髪梳かし箱」が誕生しました。これは現代における「鏡付きメイクボックス」の前身ともいえるでしょう。

 いかがでしょうか。奩の軌跡を探ってきました。古来、絶え間なく続く美への追求は、多彩多様な文化を生みました。その中の一つが奩です。質素で精緻な奩でも、古代中国人のものづくりが窺え、その芯となる「道」へのこだわりも知り伺えるのではないでしょうか。

 註:中国語原文:開面成光,則水銀附體而成,非銅有光明如許也。(『天工開物・鏡』より)

(翻訳・常夏)