紀元前260年の戦国七雄(イメージ:Philg88 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

 斉国の大将の田忌(でんき)は、相国である鄒忌(すうき)との不仲を起因に、斉国を離れ楚国に亡命した。

 田忌の名聞を耳にしていた楚王は、自ら郊外に赴いて出迎え、国の賓館へ招き入れた。席に着くや否や、待ちきれぬ様子で楚王は早速教えを請うことにした。「田先生、ご存知のことと思いますが、楚国と斉国は共に強大な国力を元に、互いに相手を倒して傘下に入れようと狙っております。我々は一体どのように応戦すべきか、お知恵を拝借できれば幸甚です。」

 田忌は戦局を見据えているかのように、冷静に答えた。「交戦術は至って簡単です。もし、斉国から申孺(しんじゅ)が先頭に立ち出兵して来たならば、楚国は上位将軍一人に五万の兵力を向かわせるだけで、申孺を仕留め凱旋できることでしょう。もし、斉国から田居が兵を率いて来たならば、楚国は上位将軍一人に二十万人の兵力を引率させて引き分けとなるでしょう。一方、斉国から眄子(べんし)が攻めて来たならば、楚国は必ず殿様自ら軍の総力を上げ先陣を切り、相国と上位将軍を左右補佐に任命し、手前もお供させてください。しかしながら、万全を期すも苦戦し、命を取り止めることしかできないでしょう。」

 程なくして戦争が始まり、斉国から申孺が兵を率いて楚国に攻めてきた。楚王は田忌の提言通り、直ちに上位将軍と五万の精鋭隊を向かわせたところ、大勝利を収め、申孺の頭を取ることに成功した。この事態に大いに激怒した斉王は、作戦を急遽変更し、最も腕の立つ眄子将軍に一任し、新たな攻撃戦をかけてきた。

 すると、楚王も自ら全国の軍事勢力を統率して先陣を切り、相国と上位将軍を左右司馬に任じたうえ、田忌に指揮の参謀を取らせた。だが、全力で応戦するも、楚王は惨敗し撤兵を余儀なくされた。

 終戦後、楚王は真っ先に田忌のもとを訪れた。北に顔を向け、襟と袖をピシッと整えてから近づき、恭敬の意を表しながら聞いた。「先生は一体どのように、これほどの英明な予見をなされたのでしょうか。」

田忌は微笑みながら語った。

「私はただ斉国の将軍たちについて熟知していただけなのです。申孺は、才能持ちに嫉妬し、才能の低い人を軽視するゆえ、結果として誰をもリードできないため、孤立無援のまま命を落としてしまったのです。田居は、才能持ちは尊敬するが、そうでない人を軽蔑する傾向があり、戦争では才能持ちの兵士は力を発揮できるが、そうでない兵士は見放されて戦意を喪失するため、楚国は二十万の軍隊を出兵するだけで引き分けとなると思ったのです。

 しかし、眄子は彼らと違い、才能持ちを尊敬し信頼する一方で、才能の低い人も大事にし、その長所を上手く生かす為、彼の率いる兵士たちは必然に士気高揚で一致団結し、戦闘力も最大限に引き出されるに違いないと踏んだのです。殿様が自ら軍隊を仕切ったとしても、この最強の軍隊に立ちはだかるすべはなく、身を守られただけで幸運だったと言えるでしょう。」

(漢代 劉向《説苑》第八巻《尊賢》より)

【附言】
 田忌の献策が奏功したのは、斉国と楚国、特に斉国の軍事力と各将軍の特徴を知り抜いていたからである。「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」(《孫子兵法》第三巻《謀功》より)

 この物語はまさにその言葉を現している。

 あなたもここに登場した三人の将軍のリーダーシップから教訓を得られるだろう。問題対処にあたり、独断と好みに流されていては、自ずと偏見が生じ、最善策に辿り着かないということだ。これは人選に限ったことではない。

 この物語は策戦に留まらず、様々なタイプの人材の活用から、人間関係の構築などにおいても広く啓発を促すことであろう。

(文・程実/翻訳・梁一心)