一、京都御所の紫宸殿
紫宸殿のある京都御所は、桓武天皇が平安京に遷都をしてから、明治天皇が東京に移るまでの間、天皇の住まいとされていました。住まいとされていた約1000年の間、京都御所は幾多の火災に遭い、修繕が繰り返されたため、現在の建物の多くは、1855年に再建されたものです。
その建物の中でも、最も格式が高く、象徴とされているのは正殿の紫宸殿であり、その大きさは東西約33m、南北約23mあり、南向きに造られています。これは、古来中国の「国の君主は北を背に南を向いて人民を治めるという思想」に基づいたものです。
紫宸殿において、古くは、天皇元服や立太子礼、譲国の儀、節会などの儀式が行われ、治承元年(1177)に大極殿が焼失した後、即位などの重要な儀式も行われるようになりました。
建物の内部には、即位礼の際に使用する天皇の御座である高御座と皇后の御座である御帳台が安置されています。
二、著名な「聖賢障子(げんじょうのしょうじ)」
紫宸殿の母屋の北側、高御座の後方に9枚の障子が立てられています。この障子には、中国殷代から唐代までの聖人、賢人、名臣等32名の肖像が描かれていることから、「聖賢障子」と呼ばれています。これらの肖像は、天子の御座所を飾るのにふさわしい画題と考えられたもので、平安時代初期から描き継がれました。
「賢聖障子」が描かれた時期は、明らかになっていませんが、平安時代の初め頃だと推定されています。それは弘仁年間(810〜824年)に描画され、陽成天皇(869〜949年)の時代に完成したとする説(『皇年代略』)や、寛平年間(889〜898年)までに描かれたとする説(『古今著聞集』)等が伝えられているからです。
この障子は、かつては儀式などの折にだけ立てられ、普段は取り外して別の場所に保管されていましたが、里内裏が閑院内裏に置かれて以降、常に立てられるようになりました。現存最古の賢聖障子は、狩野派の絵師狩野孝信が1614年に描いたもので、重要文化財に指定され、仁和寺に所蔵されています。
三、「聖賢障子」の詳細について
中央の1面に獅子狛犬と負文亀、そして、残りの8面に32人の賢臣が描かれた聖賢障子について詳細に見ていきましょう。
①負文亀
負文亀とは、古代中国、禹(※1)が洪水を治めた際に、洛水から現れた背に9つの模様を持つ神亀のことです。神亀の背中にある模様は縦・横・斜めの総和が15になる魔方陣となっています。この模様は「洛書」とも呼ばれており、極めて簡単な点と線だけからなっていますが、宇宙万物の運行法則を示している天書だと言われています。禹はこの「洛書」を元に、洪水を治める方法、更には、国を治める政治道徳の九原則を悟ったと言われています。
その後、周文王(※2)はこの「洛書」、そして、伏羲の世に、黄河から現れた竜馬の背の渦巻いた形の毛を写したという「河図」を元に、六十四卦の卦辞を書き下ろし、「周易」の法を作りました。
負文亀の背中にある模様である「洛書」は、重要かつ神秘的な意味が秘められ、中国の伝統文化においては、極めて重要なものと位置付けられています。
②獅子と狛犬
狛犬の起源は、仏像の前に置かれた2頭の獅子からと言われており、狛犬は、獅子や犬に似た日本の獣で、想像上の生物とされています。
獅子は仏教がインドからシルクロードを通り日本に伝来した際、仏像と共に、仏像の前に置かれる2頭として日本に伝えられました。日本に伝来してから、奈良時代までは、仏像の前に2頭が置かれていましたが、平安時代の初め頃からは、2頭の獅子に代わり、1頭の有角の獅子と1頭の無角の狛犬の組み合わせが仏像の前に置かれるようになりました。
そのため、獅子と狛犬は天皇の玉座を守る守護獣像として聖賢障子に描かれました。
③32人の賢聖像
「唐代絵考」(※3)によると、現在の京都御所にある障子の絵は寛政2年に営造した際に、「十八学士図」、「孔門弟子図」、「六典」、「通典」等の文献を参考に複古的に描いたものとなっています。
そして、32人の聖賢の像を描いたことは、漢の武帝が麒麟閣に11人の功臣を描き、唐の太宗が凌煙閣に24名の功臣像を描いたことに倣ったものとされています。徳の高い君主の下には功臣が集い、君主もそれを重んずるべきだという中国の儒教思想からすると、儒教的統治方針の徹底に力を入れる平安初期の宮廷が、その障子の素材を選ぶのは極めて自然なことだと思われます。
儒、釈、道三教に源を持つ聖賢障子は、京都御所の正殿である紫宸殿の一部として、日本の歴史と共に歩み、そして、日本の多くの史実を見守ってきた歴史の証人でもあると言えるでしょう。
※1 禹は、中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。黄河の治水を成功させたという伝説上の人物。
※2 文王は(紀元前12世紀 – 紀元前11世紀ごろ)、中国殷代末期の周国の君主。後世においては、模範的・道徳的な君主の代表例として崇敬される
※3「唐代絵考」著者 家永 三郎 雑誌名『美術研究』 発行年 1941-03-25
(文・一心)