阿倍仲麻呂(『前賢故実』より)(パブリック・ドメイン)
698年に生まれた阿倍仲麻呂は、若くして学才に溢れ、漢文を得意としていました。
717年3月、19歳の仲麻呂は総勢557人からなる第9次遣唐使の1人として、日本を出航し、唐の文化古都・長安に向かいました。同行していた者の中には、吉備真備と玄昉等がいました。
長安に到着して間もなく、仲麻呂は国子監太学(隋代以降、近代以前の最高学府)に入学し、主に礼記、周礼、礼儀、詩経、左伝などの経典を専攻し、卒業後、科挙試験(中国で約1300年間に亘って行われた官僚登用試験)に参加しました。彼は外国人でありながら見事に合格し、その後、唐で官僚への道を歩み、晁衡(ちょうこう)という中国名を名乗りました。
一、唐玄宗に仕える
文才や豊富な知識から一目を置かれる存在となった仲麻呂は、当時の皇帝・玄宗に仕えました。725年、仲麻呂は司経局の校書(典籍を扱う役職、正9品下)として任官され、728年、左拾遺(従8品上)、731年に左補闕(従7品上)、更に秘書監(従3品)等官職を重ね、玄宗から寵愛を受けました。
733年に、仲麻呂は両親が高齢であると言う理由で帰国を申し出ましたが、玄宗皇帝に引き留められ、帰国の願いは実現しませんでした。一緒に入唐した吉備真備は735年に日本に帰国した際に多くの経典や楽器等を持ち帰り、その後の日本に大きな影響を与えました
752年、藤原清河を大使、吉備真備を副大使とする第12次遣唐使が長安に到着しました。久し振りに旧友に再会した仲麻呂は感無量でした。遣唐使が帰国する際、仲麻呂は再び帰国の申請をしました。この時、仲麻呂は唐に来て既に37年が経過し、56歳になっていました。唐玄宗は彼の唐での数十年に渡る仕事に感謝し、割愛して帰国を許可し、同時に、彼を唐の日本への使節として任命しました。外国人が中国の使節に任命されるのは、歴史上とても珍しい事でした。
二、大詩人李白、王維らと親交を深める
仲麻呂は詩人としての才能もあり、彼は、唐の大詩人・李白、王維等と交流を持ち、自らも文名を上げ唐に名を残しました。
王維は仲麻呂が帰国すると聞き、送別詩『送秘書晁監還日本國』を書き、「別れては、まさに異郷となってしまうが 便りをどのようにして通じることができるだろうか」と2人の深い友情を謳い、別れを惜しみました。また、李白は彼が乗った帰国の船が遭難して落命したという誤報を伝え聞き、仲麻呂を悼んで『哭晁卿衡』を詠みました。詩中では、李白は仲麻呂を名月に喩え、「明月のような君は青い海に沈んで帰らず 白雲がうかび、愁いが蒼梧に満ちている」と彼の死を悲しみ嘆きました。
三、高僧鑑真の6回目の渡航を説得する
帰国が許された仲麻呂は、752年6月に藤原清河大使一行と長安に別れを告げ、揚州の延光寺に行き、高僧鑑真と面会し、日本への渡航を要請しました。これは鑑真の第6回目の日本への渡航となりました。10月15日、彼らは4船に分乗して蘇州から出航し、帰国の途に着きました。仲麻呂は海の日を仰ぎ見て、中国に別れを惜しみ、故郷に憧れ、「首を翹げて東天を望めば 神(こころ)は馳す奈良の辺 三笠山頂の上思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを」と謳いました。
しかし不幸なことに、仲麻呂が乗船した第1船は暴風雨に遭遇し、現在のベトナム中部まで流されてしまい、仲麻呂一行は755年に長安に帰着することとなりました。一方、別の船に乗っていた鑑真は、これまでに5回もの渡航の失敗を経験しながらも、今回初めて渡航に成功し、遂に日本の地に足を踏み入れることが出来たのでした。
四、帰国は叶えられず唐に骨を埋める
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、結局、日本への帰国は叶えられることのないまま、770年1月に73歳の生涯を閉じました。
盛唐は逸材を輩出した時代でした。仲麻呂は長安で重臣となり、唐玄宗、粛宗、代宗の3代の皇帝に仕え、大詩人の李白、王維等と親交を深め、高僧鑑真の日本への6回目の渡航を成功へと誘いました。仲麻呂は人徳と学才を併せ持ち、長安で素晴らしい人脈に恵まれ、盛唐と深い縁を持つようになりました。彼自身は残念ながら、日本への帰国は果たせませんでしたが、彼が日本と中国の文化交流に寄与した功績は計り知れないでしょう。
(文・一心)