894年に遣唐使の派遣が中止されて以来、長期に渡って、日本と中国との交流は途絶えていました。しかし1404(応永11年)、室町幕府の将軍足利義満は、明に船を派遣し日明貿易を始めました。それからのおよそ150年間、日本は遣明船を17回、延べ84隻を派遣し、中国から銅銭、生糸を輸入し、日本からは硫黄、刀剣、扇等を輸出しました。
遣明使と遣明船の派遣は、大規模かつ長期間に渡るプロジェクトであり、日明貿易及び両国の文化交流において、大きな役割を果たしました。その中でも、五山禅僧(*1)の活躍が特に注目されています。
遣明使団の正使と副使は幕府将軍より任命されます。彼らの役割は、国書等を所持し、日本の将軍の代表として明の皇帝に謁見し、外交折衝を行うことです。当時、使節団の正使と副使のほとんどは五山の名僧が担っていました。
一、外交官の役割を果たす禅僧
①外交文章の起草
外交文書は、外交上不可欠な物であり、その起草には一定度の知識と技術を必要とするため、1402年、義満が明の皇帝に日本国王に冊封されてから、京都五山系の禅僧らが外交文書の起草者と位置付けられました。
②正使、副使として渡明
外交使節としての外交僧の役職には、遣明使の場合、正使、副使等があります。1回目の遣明船以後、ほとんどの正使と副使は五山僧が任命されました。
③外交折衝
外交僧の資質が最も問われるのは、異国での外交折衝の場面でした。外交折衝では、自らの要求を実現するために、様々の手法が求められます。
五山禅僧が外交を担う集団とされていた理由は、中国の士大夫の教養や漢詩文を作成する力があり、大陸留学を通じて受封礼儀の知識を獲得し、一部の人は大陸の言語に精通していたからとされています。
ニ、正使として任命された最高齢の僧侶-了庵圭悟
五山僧が日明貿易に大きく貢献をしたことは言うまでもありません。中でも特筆すべきは、1511年に正使として明に渡った臨済宗の僧、了庵(菴)圭悟(1425―1514年)のことです。
了庵圭悟は、伊勢の出身で、1440年に東福寺において出家し、『荘子』『大慧書』等を学びました。その後、東福寺と南禅寺の主持を歴任し、朝廷でしばしば禅を説いていた了庵和尚は、その人格が認められ、遣明正使に任命されました。
1510年、了庵一行は一度出帆しましたが,難風のため、帰国せざるを得ませんでした。生年月日から推算すれば、当時、了庵は既に85歳と高齢でした。翌年の1511年、了庵は3隻の貿易船と、総勢292名を率いて、再度出航し明に渡りました。
明に滞在中、了庵は貿易品の価格交渉等の才能を発揮し、仕事を順調に運び、明の武宗皇帝から金欄の法衣を賜わり、詔によって育王山広利寺の101世の住持にも任命されました。また、中国の文人墨客と広く交流し、有名な大儒王陽明(※2)とも付き合いがあり、1513年の帰国の際、寧波滞在時に、王陽明から帰国を送る文「送日東正使了菴和尚歸國序」を寄せられました。
帰国後、了庵は南禅寺と東福寺に住み、翌年の1514年9月15日、90歳で示寂しました。彼の著作には『了庵和尚語録』と『壬申入明記』があります。
三、王陽明から序文を授けられる
了菴は王陽明と交流を持ち、また序文を贈られた事は日明交流史上において、とても珍しいことです。王陽明の序文から 、80歳を過ぎてから渡明した了菴の佇みや人柄がよく分かる上、序文を贈る王陽明の人となりも明確に表現しており、非常に詳細に了菴和尚を観察していたことが伝わってきます。その日付は1513年5月となっており、王陽明の署名がありました。少し難しい文章ですが、興味のある方はぜひ全文を読んでみてください。
以下は王陽明が贈呈した序文を引用したものです。
日東正使、了菴和尚の歸國するを送るの序
世の奔競するを惡みて、煩拏するを厭ふ者、多くは遯れて釋に之く。釋と爲れば道 有りて、清しと曰はざらんや。撓れて濁らざれば、潔しと曰はざらんや。狎れて染らず 。故に必ず慮るを息めて、以て塵を浣ぐ。獨行して以て偶を離る。斯くして其の道を詭 らざるを爲す。苟しくも是の則に如かざれば、其の髪を皓し、其の衣を緇し、其の書を梵とすと雖も、亦た租繇を逃るるのみ。縦誕を樂しむのみ。其の道に於けるや何如せん。
今、日本正使、堆雲桂悟、字は了菴なる者有り。年は上壽を踰え、倦まず學を爲す 。彼の國王の命を領じて來たりて、大明に貢珍す。舟、鄞江の滸に抵り、館を馹に寓す。予、嘗て焉を過ぎ、其の法容を見るに、修律行を潔くし、堅鞏して一室に坐し、經書を左右にし、鉛采自陶、皆楚々として観愛すべくして、清然に非ざらんや。之と與に空を辨じ、則ち出でて、所謂、諸殿院の文を預修し、教の異同を論じ、以て吾が聖人を竝ぶ。遂性は閑にして静安、譁からず以肆にして、浄然に非ざらんや。且つ來りて、名山水を得て、賢士大夫と遊ぶに、從靡曼の色、目に接せず。淫哇の聲、耳に入らずして 、奇邪の行、身に作さず。故に、其の心、日々に益々清く、志、日々に益々浄し。偶々、離を期せざるも、自づから塵と異なる。浣ぐを待たざるも、已にして絶す。玆に歸らんする思ひ有り。吾が國の之と與に文字を以て交はる者、太宰公、及び諸縉紳の輩の若きは、皆文儒の擇なり。咸、其の去るを惜しみ、各々、詩章を爲り、 艶飾を以て逈躅せんとす。固より、貸して濫する者に非ざるも、吾れ安くんぞ序せざるを得んや。
皇明正徳八年癸酉五月既望 餘姚 王守仁
まとめ
室町時代には、五山禅僧は寺院での修行の他、幕府との強い関係により、漢文を操る知識人として、武家の諮問を答える等、幅広い影響力を発揮しました。特に日明貿易を目的とする外交団派遣の際には、外交文章を起草し、僧侶自身が使節として渡明し、外交官の役割を果たしました。遣唐使として入唐した当時の求法僧らと比較すると、遣明使はその性格がかなり異なり、室町時代の五山僧は世俗的用務に活躍する姿が目立ちました。
(*1)京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。
(*2)王陽明(1472―1529):王守仁は中国明王朝時代の儒学者・思想家・高級官僚・武将。別号は陽明子。後世では一般的に王陽明と呼ばれている。数々の武功をたて、南京兵部尚書に任じられた。始め、朱子学を修めたが、37歳の時、「心即理」という理を悟り、「知行合一・致良知」を主張した。主著に「伝習録」。
(文・一心)