三国時代の蜀漢の第2代皇帝・劉禅(りゅう ぜん)(Wikimedia Commons/パブリック・ドメイン)

 劉禅は諸葛孔明の死後も、蜀の独立を30年間維持し、静かな生活を過ごした。一人の皇帝の権力がこれほど長く続く中、大きな混乱がなかったという点だけを見ても、劉禅は史評のように愚か者な皇帝ではなかった。

暗君にあらず 無為而治(老子の言葉:人為によらずに天下を治めること)

 劉禅は、三国時代に生まれた劉備の長男で、幼名は阿斗である。223年、劉備が病死し、劉禅が位を継承した。羅貫中(三国志演義を偏した作家)から庶民に至るまで、劉禅のイメージは終始、凡庸な君主であり、さらには「亡国の暗君、国を滅ぼす庸人」とも呼ばれた。

 本当に劉禅は愚か者だったのか? その愚かな人間が41年に渡って治世を行えるだろうか?劉禅は大きな才能と策を持ってなかったが、「暗君」ともいえないと筆者は思う。後主(一つの王朝の最後の主)ではあるが、最も無能な一人ではない。劉備や諸葛孔明などのような大物が輝いている時代に、劉禅は光を放つことができなかったのである。

 しかし、劉禅が41年間蜀を導いたのは、それなりの長所があったのだ。

孔明を尊び 蜀を団結させる

 中国の歴史を読んだ者なら誰でも知っているように、中国歴代の末帝は、厳しい租税の取り立てや腐敗、宦官専権、絶えない戦争で民を疲弊させていた。しかし劉禅はそうではない。三国志によると、劉備は死ぬ直前、劉禅に「丞相と従事、父の如し」と言い聞かせたという。孔明が生きている間、劉禅は孔明を父のよう慕い、諸事を任せて干渉せず、ほとんどのことを「丞相の言った通りにしましょう」と言った。孔明の北伐へのこだわりをよく思っていなかったが、何も言わず理解した。厳格に劉備の教えを守り、目上の者を敬い、蜀の内部を団結させ、内紛を治め、指導層の安定を維持した。当然、この恩恵を受けるのは庶民である。

 孔明が死んだ後、劉禅はすぐに丞相を廃止し、行政を蒋琬に、軍事を費禕に任せた。孔明に集中していた権力を二分して、互いに制約させ合ったのだ。蒋琬が死んだ後、劉禅自らが国政を担うと主張した。これも愚か者ができる行為ではない。

魏に降伏し、民を守る

 263年、蜀は魏の大軍に城下を取り囲まれ、劉禅は降伏を選んだ。気弱な性格の劉禅は、死んだ祖先に恥ながらも、民衆を戦火の苦しみから解き放ったのである。

 魏に降伏した後、劉禅は洛陽に送られた。当時、魏の実権を握っていた司馬昭は、劉禅を招いて宴会を開いた際、意地悪をして蜀の踊りを披露した。劉禅の家臣は亡国を嘆き、涙を流したが、劉禅は一人楽しそうにしていた。

 司馬昭が劉禅に蜀が恋しいかと尋ねたところ、劉禅は「洛陽の生活が楽しくて蜀のことは全く思わない」と言った。これが有名な「楽不思蜀」という故事である。劉禅は巧みに装って司馬昭の警戒から避け、自分の身を守り、人災を回避した。

 しかし、劉禅は亡き父を思う度に、何度泣いたのだろうか? 誰がこの悲しみを知っているのだろうか?降魏から8年後、劉禅は65歳でこの世を去った。

 三国時代、劉禅が治めた蜀は強国ではなかったが、41年の間、人物をよく知り、その才能に応じて役目を与え、政権を安定させ、メンツにこだわらずに現実を見据え、民衆を戦争から免れさせた。愚か者にこれができるのだろうか?

(翻訳・柳生和樹)