成都武候祠“三国聖地”の彫刻石(江上清风1961, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons)

 群雄が天下の覇権を争っていた三国時代は、著名な人材が輩出された時期でした。蜀国には、聖なる武将と称えられた「武聖」関羽、長坂坡(ちょうはんは)の戦いで「七進七出」の武勇伝を残した趙雲、大喝一声で千人の敵軍を退かせたと言われている猛将の張飛、神の弓使いとも呼ばれた黄忠などなど、一流の武将が輩出されました。これほど多くの名将を配下にし、才知勇力に優れた劉備は、数多の優れた名将たちを見てきましたので、いかなる武将に対しても恐れることはないはずです。しかし、実は、劉備でも恐れる武将が一人いたのです。だれの事でしょうか?その人物とは魏の名将・張郃(ちょうこう)です。

 張郃は、河間郡(現在の河北省河間市)の出身で、後漢時代の終わり、多くの英雄が兵を挙げ始めた頃、袁紹の下で力を尽くしたことがあり、当時はすでに武芸と戦略能力で頭角を現していました。しかしながら、袁紹は少しも張郃を評価せず重用しませんでした。そのため張郃は、才能を発揮するチャンスに恵まれませんでした。そこで、人材を大事にする曹操の部下になるべく、曹操陣営に入ったのです。袁紹に比べて、曹操は張郃を非常に重用し、「五将軍(五子良将)」の一人として活躍させました。

 張郃の多くの戦績の中で、最も輝かしい活躍は何かと聞かれれば、馬超(ばちょう)と戦った時の「潼関の戦い」といえるでしょう。曹操は馬超との戦いで、彼のとてつもない勇ましさと謀略によってボロボロにされ、一挙に打ち破られそうになりました。その後、賈詡が考案した離間の計にかかった馬超が、仲間だった韓遂を疑ったすき間を狙い、曹操はすぐに張郃を派遣させ、五千の騎兵を率いて馬超と戦わせました。張郃は神の如く兵を用い、ついには渭水を奇襲して切り抜けると、馬超の背後にまっしぐらに進んで打ち負かしたのです。これにより馬超の大軍はあたふたと逃げまどいました。まさにこの一戦により張郃の名前は知れ渡り、劉備は張郃に対して畏怖の念を抱くようになりました。

 定軍山の一戦では、劉備は夏侯渊(かこうえん)を斬り殺して、さらに残留の者たちを追撃すると、張郃が意外にも迅速に残りの兵隊を結集させ、反撃を防御しようとしていました。劉備は張郃のそのような行動にかつて思い到りませんでした。当時、魏陣営の他の人はみな残軍が劉備軍に対して勝算があるとは思っていませんでした。しかし、張郃は劉備が恐れている人物であるということが、参謀の郭淮(かくわい)にはかえって劉備の弱点と捉えていました。そしてこの後、劉備はやはり再び追撃することはなく、張郃は劉備の自分に対する敬意と畏怖の念に免じて、残兵をそのまま留めておきました。このことは「三国志」の中に明確に記載されています(註)。

諸葛亮が指揮を執る蜀軍の陣営は兵を率いて魏への第四次北伐へ向かいました。(ネットより)

 太和5年(紀元231年)、諸葛亮(諸葛孔明)が指揮を執る蜀軍の陣営は兵を率いて魏への第四次北伐へ向かいました。魏は司馬懿(しばい)と張郃を派遣させて迎え撃ちました。諸葛亮は、撤退と見せかけ、撤退の途中で敵軍の兵隊を待ち伏せようと蜀軍に命令しました。司馬懿は待ち伏せと知らずに、張郃に兵を率いて追いつめさせました。張郃が木門道(現在の甘粛省天水市秦州区)に到着すると、諸葛亮の軍隊があちこちに待ち伏せしており、多くの矢で張郃を攻撃し始めました。名将であった張郃は、雨が降るかのように矢が飛び交う中で命を落としました。『魏略』の記載によりますと、司馬懿の強引な追撃命令により、張郃が亡くなることとなったようです。

張郃は、雨が降るかのように矢が飛び交う中で命を落としました。(ネットより)

 一代の名将・張郃。劉備で最も恐れられた魏将となり、劉備の死後も蜀の将兵の皆からも、張郃は恐れられた存在でありました。その武芸と抜きん出た戦闘力、そして統率力が知り伺えます。

 註:『三国志・魏書十七・張郃伝』より

(翻訳・夜香木)