謝国明像(福岡市博物館蔵)

 謝国明(1193〜1253年)は南宋の臨安府(杭州)出身で、博多に居住し、日宋貿易に活躍した豪商です。日本に帰化した後、謝太郎国明(しゃたろうくにあき)と名乗りました。

 謝国明は禅宗の日本への伝播に尽力した他、博多鋏の前身である唐鋏を日本に紹介し、博多の代表的な寺院である承天寺を私財で創建しました。又、博多においては、年越しそばや鍼治療の元祖とも呼ばれています。

一、「年越しそば」にまつわる逸話

 日本では、大晦日に年越しそばを食べ、来る年の平安を祈る習慣がありますが、「年越しそば」のことを、博多では「運そば」や「福そば」と呼びます。それは謝国明が年の瀬に貧しい人たちに「蕎麦挽き餅」を振舞ったことが由来だと言われています。

 鎌倉時代のある年、博多の町は飢饉と疫病流行のため、多くの人が亡くなり、生きていても餓死寸前の状態にありました。町民は年を越す元気もなかったため、大晦日に謝国明は承天寺に人を集め、宋から持参して蓄えていたそば粉と麦粉で作った「かゆ餅」を振る舞い、私財を投じて町民を飢餓から救いました。「かゆ餅」は今でいう「そばがき」のことです。元気を取り戻した博多の人々はそれ以来、大晦日に「運そば」を食べるようになったとのことです。​​

 謝国明及び宋人の貿易商たちが、当時の日本に及ぼした影響力は決して小さいものではありません。特筆すべきなのは、彼が中国から日本への禅宗の伝播に尽力したことです。

二、聖一国師との交流

 博多三刹の一つである承天寺は、聖一国師(1202〜1280)(※1)が開山したのですが、工事一切を担当したのは謝国明でした。

 聖一国師は鎌倉中期臨済宗の僧で、名は弁円(べんねん)で、字は円爾(えんに)です。5歳から修行を始め、各地で仏堂修行に励んだ後、宋留学の志を抱き、謝国明の援助を得て、34歳で宋に渡りました。

 6年後の仁治2年(1241年)、円爾は多くの典籍を携え、謝国明と一緒に中国を出港し、博多に帰着しました。博多に帰って来てから、謝国明は私財を投げうって承天寺を建立し、円爾は同寺の開山となりました。

 宋での6年の間に、円爾は天竺僧・柏庭月光から経を、杭州径山の万寿寺・無準禅師からは印可証明を授かりました。聖一国師は、宋で学んだ禅の思想を承天寺に多く伝えたことは勿論の事、その他に製粉技術も日本に持ち帰りました。承天寺には詳細な製粉法を記した「古文書・水磨の図」が残っています。

 これにより、今日の製粉技術の根幹をなす粉挽きの技と、粉食手法の原点の面、饅頭が伝承されたと言われています。

 承天寺には、「饂飩蕎麦発祥地」の碑が建てられています。

承天寺「饂飩蕎麦発祥之碑」(Nissy-KITAQ, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

三、「大楠様」と称される

 謝国明は商人として道徳を重んじ、貧しい庶民に食料を与え、日本で鍼灸や造船技術を教え、禅宗思想を広めました。

 1243年、彼は円爾が学んだ宋の径山万寿禅寺再建の資として木の板1000枚を寄進し、1248年、承天寺が焼失した際、仏殿など18棟の建物を再建させました。
弘安3年(1280年)、謝国明は88歳で世を去ったと伝えられています。

 博多駅前の出来町通りという小さな通沿いに謝国明の墓があります。墓の横には、当時1本の楠の木が植えられ、時と共に楠が墓石を包み込むように成長し、やがて墓はすっかり見えなくなりました。

 今では、その楠の木は枯れ、大きな根元のみが残っていますが、地域の人々には「大楠様」と呼ばれて親しまれています。

  毎年8月21日の謝国明の命日に、彼の徳を偲び、承天寺境内で「謝国明大楠様千灯明祭」が行われています。この行事は700年以上の間、地域で受け継がれて来ました。

 そして、昭和48年に隣に植えられた2代目の楠の木は、今はとても繁茂しています。

(※1)静岡に生まれ、日本と中国の著名な寺で修行を積み、後に京都五山の一つ東福寺の開山となった。僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧である。

(文・一心)