古代中国では、このような商業団体がありました。儒教の思想の影響を受け、誠信の心を持ち、義を重んじ、善行と喜捨を好む彼らの中には、巨万の富を築いた豪商が輩出していました。それは、明・清王朝期一の商人集団・徽商(きしょう、新安商人)です。
明・清王朝期において、商品経済の飛躍的な発展につれ、商業も日に日に発達していきました。そんな中、ますます多くの人々が商人になり、地域を拠点とする商業団体「商幇(しょうぼう)」も形成されました。様々な商幇の中にも、有名になった商幇が晋商(山西商人)、陝商(陝西商人)、齊商(山東商人)と10を超えましたが、徽商が紛れもなく随一に有名な商幇となります。
徽商の出現
徽商とは、明・清王朝期の徽州府の6の県、すなわち績渓県、歙県、休寧県、黟県、祁門県、婺源県の6の県出身の商人から形成された緩めな商業団体です。旧徽州府は1万平方キロメートル以上の面積を誇りますが、山地が多く耕地が少なく、戦乱から逃げる多くの移民も徽州まで来たので、生き残るためのプレッシャーは募る一方でした。
明の太祖・朱元璋は明王朝を建国してから、経済の発展に大いに注力しました。荒地を開墾する移民を奨励するほか、商業への課税軽減、職人への規制緩和、通貨の一本化など、商業の発展に有利の政策を施行しました。太祖の後の数代の皇帝も太祖の経済政策を踏襲しました。そのため、戦乱から数十年の休養と安定を経た明王朝は、経済が長足な発展を遂げました。綿、桑、穀物、サトウキビ、煙草などの地域農業経済の発展が加速し、徐々に主要な生産拠点が形成されました。これに伴い、手工業の地域化も進みました。綿織物、絹織物、磁器の製造、搾油など、これらの生産拠点で作られた製品は、当然ながら、より多くの人々の需要に応え流通しました。また、各地域の経済発展も各地域間の商業貿易の発展を促進し、市場も拡大し、白銀の全国推進も、商業活動による利益の向上に貢献しました。これらのすべての条件が、商人の崛起に大いなる力を与えました。
このような経済環境において、険しい生存条件により生活の糧が乏しかった徽州の人々も、商売の道を歩み出しました。明王朝の評論家・王世貞は、「徽州の風俗では、三割の人が故郷に残り、七割の人が天下を歩く商人である①」と述べ、徽州人の商人の多さを記録しました。
他の地域の人とは違い、山地出身で険しい生存条件を経験した徽州人は抜群の勤勉さを示すところがありました。他郷を旅する途中、どんな困難があってもなんとか乗り越えようとします。それもそのはず、古代の行商はとても大変で、数年も十数年も家を離れることは、一般の人には耐えられない事であるにも関わらず、立ち向かう姿がありました。
そんな勤勉な徽州人は、さらに、知識と教養を身につけています。北の方の戦乱から逃げてきた移民の多くは、儒教を尊び、勉強を重んじる名門の家族や学者でした。そのため、南宋王朝期より、徽州では十世帯だけの村でも勉強を諦める事がありませんでした。どんなに貧しい家庭でも、自分の子供を塾に通わせ、「仁義礼智信」を学ばせていました。祠(ほこら)や大広間の左右の柱に掛ける対聯(ついれん)でも皆、徳行や学びにつながる熟語でした。そんな儒家の文化を身につけた徽州人は、鋭敏な判断力だけでなく、儒家の「仁義」と「誠信」の原則を商業活動に生かし、商業の道徳を持つ商業団体を形成してきました。
徽商の業務範囲
徽商の末裔、民国期の有名な学者の胡適氏は、「徽州人は、かの英倫三島②のスコットランド人のように、行商の足跡は全国を広く残しています」と語りました。具体的に言いますと、徽州商人の商売の主な範囲は、明・清王朝期で経済が最も繁栄していた、今日の上海市と江蘇省、浙江省を含む長江デルタ地区です。
そのほか、徽商は、武漢、九江、蕪湖など、長江と大運河の沿岸地域の都市に及びます。もちろん、北は東北、南は広州、西は雲南、貴州、中国全土に徽商の足跡が残されています。また、史料によると、徽商は日本、東南アジア、ポルトガルまで商売しに行ったそうです。
徽商について、当時はこのような記載がありました。「売れない商品は無く、至れない場所は無し。掴めない商機は無く、精確でない計算は無し。専門としない商売は無く、握れない利益は無し③」市場、需要、利益、政府の許可が揃えば、徽商が必ずその業界で商売をしに姿を現したほどでした。
明・清王朝期において、徽商の主な業務範囲は塩、質商、茶葉、木材、穀物、綿、絹などでした。数多くの業界を渉る徽商の中で、最も資本力があったのは塩商人でした。当時、多くの塩商人は数百万、数千万の銀の財産を所有していました。また、裕福な塩商人の中には、「両淮総商(りょうわいそうしょう)」として選出され、朝廷と他の塩商人との橋渡し役を務めていました。汪、程、江、洪、潘、鄭、黄など、徽州の大きな家族は、何世代も亙って塩業を営んできました
「誠」「信」「義」「質」~徽商の商業道徳~
明・清王朝期において、徽商の迅速な発展と何百年もの存続は、彼等の重んじる商業道徳とは切っても切り離すことができません。儒教思想の影響を受けた徽商は、「誠をもって人と接す、信をもって物を扱う、義をもって利を得る、質をもって勝を取る」と、特有の商業道徳を掲げます。そんな徽商の美談話は数えきれないほどありましたので、ここでは「誠」「信」「義」「質」それぞれ一つずつ話を紹介します。
「誠をもって人と接す」
婺源商人の江恭塤(しゅん)さんは、德清商人の陳万年さんと一緒にビジネスをして、数年間でたくさんのお金を稼ぎました。しかし、陳さんは急逝し、4歳の息子を残してしまいました。江さんはすべての財産を独り占めせず、この数年間の帳簿を振り返り、陳さんの得るべき元金と利息の銀1,800両を算出し、その全数を陳さんの妻に渡しました。感動極めた陳夫人は一部の銀を謝礼金として江さんに渡したかったのですが、江さんがそれを丁重に断りました。
「信をもって物を扱う」
婺源の茶葉商人の朱文熾さんはある年、大量の徽州の新茶を珠江に輸送して販売しようとしました。距離の長い運送途中で暫く遅延にあったため、目的地に到着した茶葉が新茶の市場に間に合いませんでした。そのため、朱さんは茶葉を売る時、必ず「陳茶(古い茶葉)です」と強調しました。これはもちろん、茶葉の価格と利益に影響を及ぼしましたが、朱さんは動じることがありませんでした。
「義をもって利を得る」
歙(きゅう)県の穀物商人の胡山さんはある年、穀物を嘉禾(かか)に輸送して販売しようとしました。しかし、当時、嘉禾は大飢饉に遭い、穀物価格が高騰し、数百銭で買えた一斗のお米は数千銭もかかりました。お米の中に砂利やカビの生えた米を混ぜて、大金を儲けようとした穀物商人もいましたが、胡さんはそれを断固として反対し、相場の価格で公平な商売を行いました。
「質をもって勝を取る」
績渓商人の胡天注さんが創設した「胡開文墨店」は、商品のクオリティを保証するため、大金を惜しまず投入し、上質の原料を仕入れ、良い職人を雇い、丁寧に墨を製造していました。そのため、「胡開文墨店」の墨は上質で名を馳せ、書道家から好評で愛され続けました。
徽商の恩返し
強い宗族思想を持つ徽商たちは、大儲けしても故郷と家族に恩返しすることを忘れません。例えば、現代の小学校に相当する「義学」と、学問を研究し、科挙試験に備える「書院」の開設に力を入れる徽商。徽州の多くの義学と書院は徽商の出資で開設され、校舎、教師、教育等の諸経費は徽商が負担していました。
そんな義学と書院の長期的な運営を確保するため、徽商たちは三つの資金調達方法を考案しました。一つは、義学田んぼを購入し、田んぼの賃金収入を学校経費に充填します。二つは、購入した家屋を賃貸に出し、家屋の賃料収入を学校経費に充填します。三つは、集まった募金を塩商人や質商に預け、その利息を学校経費に充填します。この三つの資金調達方法で、多くの義学と書院は長年の運営ができました。教育の他、徽商は書画、劇、文学などの文化の発展にも注力し、徽州の文化環境の発展にも貢献しました。
「天命を畏る」と「天下を救済する」の儒家思想の影響を受け、大多数の徽商は善行と喜捨を好みます。例えば、道路や橋の建設、災害救助や貧困層への支援などの公益事業において、徽商たちは惜しみなく出資して援助します。こんな美談話も数えきれないほどありました。例えば、茶葉商人の詹廷墉さんは、故郷で道路と橋の建設、家系図の編集と更新に千金も投入しました。穀物商人の詹景瑞さんは、大飢饉に遭った饒州(じょうしゅう)に来た時、販売しようとした4,200石のお米を無償で提供し、無数の人々を助けました。四川で商売をする詹文錫さんは、数千両もの金を出して現地の人を雇い、「驚夢灘」と呼ばれていた険しい水路を船の移動が便利な水路に改造しました。現地の人はこの恩義を紀念し、この「驚夢灘」を「詹商嶺」と呼び、記念碑を立てました。
勤勉で知的で、広く商売をし続けた徽商。清王朝の末期、時勢に逆らえず、天下の徽商も没落していきます。しかし、明・清王朝期の都市と村の経済の発展における徽商の貢献は歴史に刻まれ、徽商たちの商業道徳も後世に称賛され続けてきました。今でも、徽州に尋ねることがありましたら、徽商たちが残した、空気に漂う豊かな徽州の文化の息吹を、肌で感じることができましょう。
注:
①中国語原文:徽俗十三在邑,十七在天下。(王世貞『弇州四部稿卷五十三』より)
②英倫三島とは、イングランド、スコットランドとアイルランドの三つの島の総称であり、「イギリス」に対する中華文化圏における特有の呼称である。
③中国語原文:其貨無所不居,其地無所不至,其時無所不鶩,其算無所不精,其利無所不専,其権無所不握。(『歙志・貨殖』より)
(文・周暁輝/翻訳編集・常夏)