香港の大嶼島(ランタオとう、中国語では大嶼山)にある仏像(Wikimedia Commons/Chris Brown from Melbourne, Australia/CC BY-SA 2.0

 お釈迦様の教えは、私たち人類に六道輪廻から抜け出す道を示してくれました。佛教は中国に伝わってから、多くの王朝の帝王たちに大事にされ弘められましたが、中には個人の好き嫌いで佛教を滅ぼす運動を起こした帝王もいました。かつて滅佛を命じた4人の帝王はいずれも若い時に急死しており、天罰を受けたのではないかと思われています。次に述べるのはそんな4人の帝王の話です。

 一人目の北魏(南北朝時代)の第3代皇帝の太武帝・拓跋燾(たいぶてい、408年―452年)は、輝かしい戦功を持っており、自ら勇猛な騎兵を率いて、四国を倒し北方を統一しました。彼は道教を尊敬し推奨しており、北魏で「天師道」(てんしどう)を広めることを自ら推し進めていました。拓跋燾は道教を国教にするために佛教を排斥し、彼が39歳の時に下した聖旨によって、全国で佛像が破壊され、佛経は焼かれ、寺院は破壊され、僧侶たちは生き埋めにされました。その報いなのか、拓跋焘は45歳の時、宦官に殺され、2人の子供も続々と宦官に殺されました。

 二人目の北周(南北朝時代)の第3代皇帝の武帝・宇文邕(うぶんよう、543年―578年)も輝かしい戦功を持っており、北方を統一した人物として有名です。彼は32歳の時、佛道ともに絶滅させ、約4万カ所の寺院を潰し、佛像を焼き、300万人の和尚と尼僧を強制的に還俗させました。その結果、北方から佛法がほとんど消えてしまいました。そして彼が36歳の時、誇らしげに自らの軍隊を率いて敵を討伐している時に、急病で亡くなりました。その後、しばらくして皇族は絶滅させられ、北周は隋に取って代わられてしまいました。

 三人目の唐朝の第16代皇帝の武宗・李炎(りえん、814年―846年)は、道教を信じていましたが、佛教を信じておらず、26歳で即位すると佛教を排斥し始めました。32歳の時、正式に佛教を絶滅させる聖旨を下しました。大小4万カ所以上の寺院が破壊され、佛教の経典を燃やし、佛像を溶かして硬貨を作り、26万人余りの和尚や尼僧を強制的に還俗させました。このことは歴史上で「会昌の廃佛」と言われています。その翌年に、武宗は急死してしまいました。享年33歳でした。

 四人目の五代後周の第2代皇帝・柴栄(さいえい、921年―959年)は、先に述べた歴史の教訓を汲み取ることなく、強引に佛教の絶滅運動を推し進めました。天を敬い佛を敬う配下の抵抗心理に対し、柴栄は「佛は自分の肉や目も喜捨することができるのだから、佛像を壊して硬貨を作ることを、佛は喜んでいることでしょう。もし私の体で人々を救えるのなら、私も喜んで喜捨します」と言い、佛像を溶かして硬貨を作る命令を下しました。それにより、家に5キロ以上の銅の佛像があった場合、上納しなければ死刑にされました。このことで一時的に世の中の佛像はほとんどなくなりました。鎮州の大悲寺に銅で造られた観音菩薩像があり、とてもご利益があることで有名でした。その佛像を破壊した人は後に、なぜか手足が全部折られた状態で死んでいるのが見つかりました。それ以降、人々は恐れ、この佛像に触れる人はいなくなりました。当の柴栄は自ら斧で菩薩の胸を叩き切るなどし、佛教の絶滅運動を推し進めました。彼は長い間名君と認められ、勤勉に国を治め、全面的に改革し、国土を広げるなど輝かしい功績を持っていましたが、壮年で急死しました。享年39歳でした。

 これは滅佛を命じた4人の帝王が受けた天罰の話です。どれほどの地位や功績があろうと、やってはいけないことをすると天罰が下るということを物語っています。現代に生きる私たちも、歴史の教訓を汲み取って、神佛を敬う心がなくても、神佛に非礼な言動を慎むべきではないでしょうか。

(編集・東方)