(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 「塞翁失馬」という故事成語をご存じでしょうか。これは中国前漢時代の思想書「淮南子」にある一つの物語です。

 昔、中国北方の要塞の近くに住んでいた老人(塞翁)がいました。塞翁が飼っていた馬がある日突然逃げ出し、胡(北方の異民族の国)に行ってしまいました。それを知った人々は気の毒に思い、慰めると、塞翁は「これは悪いこととは限らないだろう」と言いました。

 数か月後、逃げた馬は立派な駿馬を連れて帰って来ました。人々がお祝いに来ると、塞翁は「これは良いこととは限らないだろう」と言いました。

 その後、塞翁の家にはたくさんの子馬が生まれました。塞翁の息子は乗馬が好きで、ある日、落馬して足の骨を折ってしまいました。人々が慰めると、塞翁は再度、「これは悪いこととは限らないだろう」と言いました。

 一年後、胡の人々が要塞を攻めて来ました。若者たちのほとんどは戦死してしまいました。塞翁の息子は足を骨折していたため、兵役を免れることができて、無事でした。

 この物語は、物事が起きた際、悲観的にも、楽観的にもなり過ぎず、平常心でいることの大切さ、物事の良し悪しは、その時の自分の価値観によらないこと、そして、環境の変化に伴って、物事が変化することを教えてくれます。

 物語の出典である「淮南子」は、紀元前2世紀頃、前漢の武帝の時代に、前漢の初代皇帝である劉邦の孫にあたる劉安と、その下に集まった学者たちの手によって編纂された道家的色彩の強い思想書です。書物は21巻から構成されており、塞翁失馬の説話は、「淮南子」の「人間訓」に記されています。

 「人間訓」の章の冒頭部分には、「禍が来るというのも福が来るというのも、すべては人間が自ら作り出すことである。禍と福は同じ門から出入りし、利と害は隣り合わせなので、聖人でなければこれを区別することはできない」という内容が記述されています。

 ここでは、「禍と福、災いと幸運という概念そのものが、人間の心が生み出した幻影のような存在であって、両者は互いに表裏一体の関係にあること、そして、人間の智慧が有限であるため、天の按排や自然の仕組みを読み取ることができず、物事の禍福を予知できない」、と「淮南子」の著者達は伝えようとしているのだと感じます。

 生活の中で、我々はよく「良い事は良い事、悪い事は悪い事」と断定的に見てしまいがちです。しかし、目先の禍は福に転じるかもしれないし、一見良いことのように見えても、思いがけない結果になることもあるかもしれません。そのため、一つ一つの出来事の表面的な禍福にとらわれず、平常心と善念を持ち続けることこそ、賢明な生き方ではないでしょうか。

 2000年も前の先人達の智慧は、今でも極めて重要な意味を持っているように思います。

(文・一心)