西遊記(北京・頤和園の回廊絵画・无底洞)(Shizhao, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 中国の四大名著は、中華民族の古典文学の宝物です。四つの作品はそれぞれ、伝統文化の具現とも言えます。今回は、その四大名著が教えてくれたことを皆さんにシェアしたいと思います。あくまでも個人的な意見ですので、間違ったところがありましたら、お許しください。

 『紅楼夢(こうろうむ)』、元の名を『石頭記(せきとうき)』は、一粒の石ごろが人間の住む世界で世の中の繁華と無常を経験した後、のところに戻ったという物語です。物語の最後、著者は「文章全体、荒唐無稽の言葉で満ちている。辛酸の涙が溢れる。皆が作者は気が狂っていると言うが、この文の真の意味を理解している者は誰もいない」と綴りました。『紅楼夢』を専門に研究する「紅学者」と呼ばれる後世の学者たちは、多くの研究成果を出しましたが、どの考えが正しいのかわからず、一致した結論がありません。私の考えでは、『紅楼夢』が教えてくれたことは、まさに「人生、夢の如し」の一言です。

 『紅楼夢』の主人公賈宝玉(か・ほうぎょく)は、本来、女媧(じょか)が天を修復する時に使いあまった一粒の石ごろだったそうです。伝説では、女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られており、これも意外な接点とも言えます。何も知らない石ごろだからこそ、霊力を得て、人間の住む世界に行こうと思うようになります。多くの出会いを経て、賈宝玉の霊力は世間に埋もれ、気が狂いそうになっていました。空空道人と癩頭僧の点化を受けてから、宝玉はようやく霊力を取り戻しました。まさに「人生、夢の如し」のテーマを表現する作品です。そして、「人はどこから来て、どこまで行く」ということを答えてくれたのは、『紅楼夢』という作品の存在意義なのではないでしょうか。

 『西遊記(さいゆうき)』は、一凡人の玄奘三蔵が、九九八十一難(くくはちじゅういちなん)を乗り越え、自分の仏としての果位を実証できた過程を、生き生きと繰り広げていく物語です。玄奘三蔵は前世で天界にいた時、釈迦の第二の弟子、「金蝉子」(こんぜんし)でしたが、仏法を軽んじたため下界に落とされました。そんな玄奘三蔵が元の世界に戻るための物語を繰り広げたのはこの『西遊記』でした。『紅楼夢』が示す人の「行く場所」にたどり着くために、「どのように行く」を示したのが『西遊記』だと言えます。

 『三国志演義(さんごくしえんぎ)』という歴史劇は、戦乱の三国時代を舞台とし、登場人物たちの人物像を表現します。様々な計略や陰謀も登場していますが、人間として最も大切な品徳「義」の中心軸がブレることがありません。『三国志演義』は、性格それぞれの登場人物たちが繰り広げた物語を通じて、「義」という一文字に深い意味と具現を与えました。そんな『三国志演義』が教えてくれたのは、歴史という演劇において、脚本はすでに決められていますが、自分が与えられた役を「義」をもって演じていくのが最も重要なことです。

 『水滸伝(すいこでん)』は、王朝交代の時代で、様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)百八人が、梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結し、国を救うことを目指すようになる物語です。百八人の好漢の来歴も、実は洪太尉が誤って妖魔を逃し、伏魔殿より放たれた百八星の生まれ変わりだったのです。しかし、その百八人も自分だけの意思で世界を変える力がなく、苦痛と足掻きの中で取捨選択を直面しなければなりません。そのような物語を述べてくれた『水滸伝』を読んで、人生の意味について考えるようになるのでしょう。

 中国の四大名著は世の中の人々を魅了し続けてきました。その原因は、技巧極めた表現力による素敵な物語だけでなく、物語の奥にある真実が人々の心の奥まで揺るがし、どこか懐かしく感じさせるのでしょう。四大名著はみな、神様にまつわる話から始まり、中国の五千年文明と伝統文化における歴史観と人生観の神髄である「天命を敬い、返本帰真」を物語っています。こういった意味でも、四大名著は中国伝統文化の具現であり集大成とも言えます。

(翻訳・常夏)