劉備は庶民と一緒に川を渡る(北京・頤和園の回廊絵画)(ウィキペディア、パブリック・ドメイン)

 昔から「逆境の時に人の心がよく分かる」という言葉がよく言われます。戦乱に揺れ動いた三国時代では「義」の内包が現れました。三国の「義」は、主に劉備、関羽、張飛の武将の品格によく現れており、特に劉備の仁義については今日の人々に広く知られています。

史上稀にみる厚い仁義

 群雄割拠する中で、大至急に立脚地を必要とする劉備(りゅう び、字は玄徳、161年―223年、中国、後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝となる人物)は、陶謙から3回も徐州を譲ると言われても、受け取りませんでした。陶謙は臨終の際に、指で心を指して亡くなりました。その意味は劉備にこの徐州の牌印を受け取って欲しいという思いからでした。陶謙の葬儀が終わった後、徐州の軍隊の人達も劉備に牌印を受け取ってもらうように求めましたが、劉備は固く断りました。翌日、徐州の庶民たちは泣きながら拝むようにして、劉備に徐州を管掌(かんしょう・自分の管轄の仕事として監督し取り扱うこと)するようにとお願いしたところ、劉備はようやく受け取りました。劉備の「義」は崇高で、普通の人にはとても、とてもやり遂げることができないものです。

 新野の戦いの後、曹操の軍隊は至る所におり、八つに分かれて劉備の所在地である樊城を包囲し、劉備の生死は一本の糸に懸っていました。投降の勧告に応じなければ即日にでも攻撃すると、曹操側から告げられました。劉備は諸葛孔明(天才軍師)に策を聞いたところ、孔明は「速やかに樊城を捨て、襄陽を取って一時的に滞在するように」と答えました。劉備は「長い間、自分について来ている庶民たちをここで見殺しにし、見捨てるわけにはいかない」と言い張ると、孔明は「一緒について行きたい者は連れて行き、ここを離れたくない者は残ってもよいとお触れを出し、すべて庶民に告知すればいいでしょう」と告げました。この知らせを受けた新野と樊城の2県の庶民たちは、一斉に「我々はたとえ死んでも、劉殿下について行きます!」と号泣しながら、即刻に出発しました。その隊列は年寄りや子供を助け合いながら、また、男女を問わずに引っ張り助け合いながら、大波のように川を渡り始め、両岸の泣き声は絶えませんでした。船上でこの様子を目にした劉備は大泣きして、「われ一人のために、こんなに大勢の庶民たちに大きな災難をもたらしてしまい、われはまだ生きる価値があるのか!」と嘆き、川に飛び込もうとさえしましたが、左右の護衛兵に必死に止められました。船は南の岸に着き振りかえって見ると、対岸にはまだ自分達のいる南岸に向いて泣いている者が大勢いたため、劉備は急いで船を派遣して迎えに行くように命令し、すべての人が渡り切ったのを確認してから、大将の劉備はようやく馬に乗り前に進み始めました。

 「大きな災難が身に降りかかってきたら、それぞれ各自を守れ」という言葉があります。自分の生死存亡の折に、劉備玄徳のように一心に庶民を守るような人物がいるでしょうか? 大勢の老若男女の家族を連れて一緒に同行するのは軍隊にとっては足手まといになり、一番危険で忌避されることであるのに、劉備の庶民を大事に思う崇高な大義は、古今東西でも指折り数えるほど有名な史実です。

(つづく)