紀元前260年の戦国七雄(イメージ:Philg88 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

 鄒忌は早速この反省を踏まえ、斉威王に拝謁(はいえつ:君主など高貴の人にお目にかかること)し諫言(かんげん:目上の人の過失などを指摘して忠告すること)を呈した。

「臣下の妻、侍女、そして客の皆が僕の方が徐公より優れていると言ったのは、その者の愛着と要求によるものでございました。今現在、斉国は管轄下に広大な土地と百二十個もの城池を誇り、宮殿のお姫様と侍女たちは殿下を愛してやまず、朝廷の大臣は誰もが殿下に敬畏の念を持ち、国民もまた殿下に望みを抱いております。それゆえ殿下は、誰の本心も聞くこともできず、さぞかし盲目になってしまわれていることでしょう。」

斉威王は諫言を厭わず、進歩を図る姿勢で歴史に名を残した。図:斉国の首都臨淄(今現在は山東省淄博市臨淄区)の復元モデル。(イメージ:Rolfmueller/Wikimedia Commons/ CC BY-SA 3.0

 鄒忌の諫言に目が覚めた斉威王は、直ちに国中に法令を下し、官僚と臣民一同に王の不足と過失を果敢に指摘するよう提唱した。更には、王に拝謁して諫言する者には上賞を、奏上(そうじょう:天子・国王などに申し上げること)の形で勧告する者には中賞を、そして公に行った王への物申しが王の耳に入るのであれば下賞を与えるといった具現化した奨励も設けた。

 すると、王宮の門前にはたちまち進言を行う国民で溢れ返り、出入りは絶えなかったという。

 その結果、数ヶ月後には訪れる者がたまに見かける程度にまで減り、そして一年が経つ頃には、進言する事が誰にも思い浮かばなくなるほどにまで改善された。斉威王の英断は騒乱を巻き起こすどころか、各地の逸材が集結し献策(けんさく:はかりごとを上のものに申し述べること)する運びとなり、一年後には国政における欠陥の立て直しを見事に実現した。

 斉国の革新を耳にした燕国、趙国、韓国と魏国の国王たちもその秘訣を問うべく、我先にと斉威王に拝謁してきた。斉威王の賢明な方策はその名声を響かせ、出兵することもなく、朝廷に身を置きながらも敵国を制覇して行った。その積極的に諫言を提唱する果敢で懸命な志もまた歴史上高く評価され、世に名を残した。

 鄒忌の美貌に対する執着の反省が、斉国を強国へと促し、後世に語り継がれる美談になるとは誰も想像しなかっただろう。

(おわり)

出典:『戦国策・斉策一』

(翻訳・梁一心)