紀元742年、唐の高僧・鑑真は第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から、日本の朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意しました。その時、鑑真は55歳でした。
鑑真の日本への渡海は実に苦難に満ちた旅でした。日本にたどり着くまで5回も渡海を失敗しました。ある時は同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、ある時は海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、また、ある時は遠く海南島に流される労苦を味わい、日本にたどり着くまでなんと12年の歳月を要しました。その間、鑑真は栄叡や弟子の祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明する不幸に見舞われ、そして、海路、陸上の旅で世を去った者36人、望みを放棄して彼のもとを去った者200余人に及びました。
紀元753年、6回目にしてようやく、鑑真は遂に日本の地を踏むことができました。
以後、鑑真は76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇を始めとする多くの人々に授戒をされました。鑑真は日本の律宗の開祖として尊敬され、そして、日本の仏教の発展に大いに力を尽くしました。
しかし、鑑真はなぜ命の危険を冒してまで海を渡らなければならなかったのでしょうか?
鑑真は当時、中国では既にかなり高い地位を築いており、そのまま行けば、戒律宗では中国最高位を占める地位になる可能性もある立場でした。この約束された地位を捨てて、当時「未開の国」と思われていた日本へ渡ることを選んだのはなぜでしょうか?
5回の航海を失敗し、12年の歳月を費やし、視力を失い、最愛の弟子を亡くし、大勢の人が去って行く中、鑑真は私達が想像もできないたくさんの困難に遭遇したことでしょう。しかし、鑑真は諦めず、苦難に耐え、信念を貫き、不撓不屈の精神でついに日本にたどり着いたのです。
鑑真のその強靭な精神力の源、はたまた渡海の動機はいったい何だったのでしょうか?
昨年「神韻芸術団の公演」で観た最初の舞踊劇を思い出しました。「黄金に輝く天の聖境に飾り帯をはためかせて舞い踊る仙女を神々は静かに見守ります。そこへまばゆい光が射し込み、創世主が到来されます。創世主が神々に自らの誓願を果たし、神の文化を人類に授けようと号令をかけるのです。その呼びかけに応じた宇宙の神々が地上に降り立ち、壮麗な神伝文化を創り上げます」との内容でした。
もし、鑑真が創世主の呼びかけに応じて宇宙から下りてきた神の1人だったとすれば、その謎は容易に解くことができます。神の文化を人類に授ける使命を果たすため、鑑真は創世主の真意を受け、神の文化をこの日本と言う島国に住む人々に伝授しようとし、そして、仏教の戒律を授け、日本の仏教界に秩序をもたらそうとしました。そのため、鑑真は執念を燃やし、私たちが想像もできない精神的、肉体的な苦難を乗り越え、遂に悲願が達成し、日本の地を踏まれました。さもなければ、鑑真のこの命をかけた渡海の動機を説明できるものがあるのでしょうか?
仏教の戒律の他にも、鑑真は味噌や砂糖、納豆、そして、医学の知識や漢方薬、さらに建築、彫刻の技術も日本に持ち込み、さらに、柿の木の並木も鑑真の弟子が日本に伝授したとも言われています。鑑真は身を粉にして自らの誓約を果たしたのです。
鑑真は創世主に対する誓いを果たすために、命がけで渡航をしたとするならば、これだけの苦難を嘗めさせても鑑真を日本に送り込まなければならなかった創世主の真意はいったい何だったのでしょうか? それは創世主がこの世の人々を加護してくださる慈悲なる心で解釈する以外に説明できるものがあるのでしょうか?
創世主に愛され、加護された我々はその広大な慈悲を感じているでしょうか?感謝しているでしょうか?
鑑真が嘗めてきたその苦難の数々を想像してみると、思わず涙が出ました。
(文・一心)