バーミヤーンはアフガニスタンのほぼ中央に位置し、標高約2500メートルの場所にあります。この辺りは、2〜3世紀頃から仏教が栄え、6世紀頃には巨大大仏、所謂「バーミヤーンの大仏」が造立されました。
バーミヤーンに関する最も正確な情報を記録したのは、630年頃にこの地を訪れた中国の求法僧・玄奘です。ここに15日間滞在した玄奘は、その後の著作『大唐西域記』において、当時のバーミヤーンの仏教の隆盛ぶりを書き記しました。
1.バーミヤーン巨大仏像についての記述
(1) 2体の立仏
まずは、『大唐西域記』(※1)の「梵衍那国(バーミヤーン)」の条では、「バーミヤーン国は東西二千余里、南北三百余里で、雪山の中にある・・・、国の大都城は崖に拠り谷に跨っている」、「『王城の東北の山の隅に高さ140~150 尺の立仏の石像』があり、金色に輝き、宝飾がキラキラしている」と記されています。
この「高さ140~150 尺の立仏の石像」は、現在世界最大の立仏像として知られている、高さ55メートルの「西大仏」です。
そして、「この大仏の東に先王が建てた伽藍があり、この伽藍の東に高さ百尺余の立仏がある」という記述もあります。ここでの「高さ百尺余の立仏」とは、高さ38メートルの「東大仏」と呼ばれる大仏のことです。
これら2体の大仏は、建立から約1500年間もの間、バーミヤーン渓谷の断崖で、人間の悲観離合を眺め、幾多の戦火をくぐり抜けてきました。しかし残念なことに、2001年春にタリバーン政権によって爆破され、人類共通の文化遺産は失われてしまいました。
(2) 約300メートルの大涅槃像
『大唐西域記』には、上記2点の記述の他に、「城の東二、三里の伽藍の中に長さ千余尺ある仏の入涅槃の臥像がある」という記述もあります。
ここで言う「長さ千余尺」は、「百余尺」の東大仏の約10倍、即ち300メートルに及ぶ巨仏の筈ですが、この巨大な仏の涅槃像がどこにあるかは知られておらず、その存在は謎に包まれたままです
この巨大涅槃像の謎を解明する推論の1つが、イスラーム文化による影響です。
八世紀後半、バーミヤーンにイスラーム化の風が吹き込んだ後、『大唐西域記』に記載されたその巨大な涅槃像は、岩に刻まれた破壊されにくい東西大仏とは異なり、一早く偶像破壊の対象になったのではないかと考えられています。
2. バーミヤーン仏教文化についての記述
『大唐西域記』には、バーミヤーンの人々は「信仰に篤い心はことに隣国より甚だしい。上は三宝より下は百神に至るまで真心を致さないことはなく、心を尽くして敬っている」、「伽藍は数十ヵ所、僧徒は数千人で、小乗の説出世部を学習している」、そして、300メートルの大涅槃像伽藍の中に、「この国の王はここに無遮大会を設けた」、「上は国王の妻子より下は国家の珍宝に至るまで喜捨し、役所の倉庫が空になるとさらに自分の身をも布施する」との記述があり、これらの記述から当時のバーミヤーンでは、仏教が大変盛んであり、王から庶民まで厚く信仰されていたことが窺われます。
更には、バーミヤーン渓谷の崖には礼拝するための仏堂や、修行のための僧窟等が2万個も造られており、石窟内は壁画や塑像などで美しく飾られていましたが、その壁画の80%が意図的に消され、失われてしまったことが、その後の調査で分かりました。
玄奘が記録した『大唐西域記』の梵衍那国の条は、現存するバーミヤーンの歴史に関する最古の記録として、そして、バーミヤーンにおける仏教文化の最盛期の最も精細な実録として、とても高い価値を有しています。
インドで誕生した仏教は、中央アジア、中国、朝鮮半島を経て日本に伝播しましたが、その伝播の最西の地がバーミヤーンだったと言われています。
※1著者:玄奘、訳注:水谷真成、出版:平凡社。
(文・一心)