紀元前260年の戦国七雄(イメージ:Philg88 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0)
楽毅(がく き、生没年不明)は魏の出身で、祖父の楽羊は魏文候に仕えた武将であり、かつて中山国を滅ぼした。戦功の褒美として中山の首都・霊寿を授けられ、その後、楽羊とその子孫は霊寿に住み着いた。しかし、魏文候の死後、歴代の君主は奮わず、趙との中山の戦いで中山が趙の武霊王に滅ぼされた後、楽毅は一旦趙に入った。
武霊王は楽毅のことを高く評価していたが、「沙丘の乱」で息子の恵文王に殺された。楽毅は後継者の恵文王から邪険にされ、重用されなかったため魏に戻ることにした。その後、魏の使者として燕に遣わされることになった。燕の昭王は、先見の明がある優れた人物であり、賢者を礼遇した。昭王は楽毅の才能に着目し、「上卿」という官職に任じようとしたが、楽毅は昭王からの重用に対し、「誠に恐縮ですが、私のような外の者が『上卿』のような要職はお受けしかねます。一旦『亜卿』とさせていただき、燕に貢献し功績を立ててから要職に任じてください」と語った。
列国を遊説し連合軍を率いて斉を征伐
当時、斉の湣王は乱暴で傲慢、継承した権力を振りかざす王であった。自ら東帝と名乗り、斉の国力を背景に近隣の列国に対して恫喝的な外交を行い、恨みを買っていた。燕は斉によって一度滅びかけており、当時太子として辛酸を舐めた燕の昭王は、斉に対して強い恨みを抱いていた。湣王が愚昧で無能であることから、斉の征伐時機がやってきたと思い、楽毅に斉攻略についての意見を聞いた。
楽毅は「斉は春秋五覇の一つであり、国土も広く人口も多い、燕の力だけでは攻め落とすことは難しいでしょう。趙・秦・韓・魏を味方に引き入れることが必須であり、五国の軍を連合することによって、斉を攻め落とせることができます」と説明した。そして、諸国への遊説を自ら志願し、諸国の君王に湣王の暴虐を訴え、諸国は心を共にして斉を征伐することを決心したのだった。
楽毅は昭王から上将軍に任じられ、趙・秦・韓・魏・燕の連合軍を率い、斉を攻め始めた。連合軍は済川の西で斉軍を打ち破った後、楽毅は直ちに秦軍と韓軍を帰還させ、魏軍に故宋国(斉に滅ぼされた)を攻めさせ、趙軍に中山国の東部を攻めることを命じ、自ら燕軍を率いて斉の首都の臨淄に迫り、破竹の勢いで斉の七十余りの城を次々と落とし、湣王は莒に逃げ込んだ。その後、魏・趙軍も次々と帰還し、楽毅は臨淄に残り、最後の2つの城である即墨と莒を攻めようとして、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。
(つづく)
(原文・藍 廷綱 / 翻訳・清水 小桐)