「座右の銘」とは、心に常に留め、戒めとする言葉のことです。古代中国では、皇帝や官吏の他、多くの儒学者が自分の座る場所の傍に、戒め言葉を書き記し、自らを律し、激励していました。「座右」は、文字通り座る場所の右側のことを意味し、「銘」は金石、器物などに刻まれた文字、文章を意味します。
そして、「座右の銘」の言葉の語源は主に以下の二つの説があります。
一、後漢文人崔瑗(さいえん)の銘文からという説
中国の南北朝時代(439年〜589年)に編纂された詩集「文選」(※1)の中に、崔瑗(78年~143年)の「座右銘」という文章が収録されています。この文章は20句の100文字からなっており、「座右の銘」の語源と言われています。
崔瑗(78年~143年)は、後漢時代の政治家・文人です。崔瑗の兄である崔璋が殺され、崔瑗は自らの手で仇を討ちました。彼は捕まらないよう、故郷を離れ、流浪生活を余儀なくされました。数年後、大赦により崔瑗は郷里に帰ることができましたが、彼は自分の犯した罪を悔い、自らを戒める一篇の銘文を書き、常に自らの傍らに置いていました。これが「座右の銘」です。
彼の文章の最初の四句は、「他人の短所を責めてはいけない」、「自分の長所を誇ってはいけない」、「人に恩を施しても、その恩返しを期待してはいけない」、「自分が恩を受けたなら、いつまでも忘れてはいけない」となっています。
二、「宥坐(ゆうざ)の器」が由来という説
「座右の銘」は、「宥坐の器」という水汲み容器から来たという説もあります。「宥坐の器」とは、水をいれる器のことで、水が空のときは傾き、半分ほど入るとまっすぐ立ち、満杯になると転覆します。別名「欹器(きき)」とも呼ばれています。
春秋戦国時代の五覇の1人である斉桓公(かんこう ?~前643年)は、「宥坐の器」を常に自分の身の回りに置いて、自己を戒めていたという伝説があります。
『荀子』(※2)「宥坐篇」の中に、このような話が記載されています。
ある日、孔子は弟子達と一緒に魯国にあった桓公の廟を参拝に行きました。そこで、儀式に使われる変わった形の儀器を目にした孔子は、廟守りに聞くと、廟守りは「宥坐の器です」と答えました。
孔子は、「宥坐の器は、虚なれば即ち傾き、中なれば即ち正しく、満なれば即ち覆る」と言い、弟子に、「その器に水を注ぎなさい」と命じました。
弟子の1人が水を汲み、器にゆっくりと注ぎました。空の器は水が少し入ると傾き始め、真ん中まで水が入ると、器が安定して正しい形になり、 満杯に近づくと、器が転覆し、中の水が全部零れてしまいました。
そこで、孔子は、「世の中の万事、すべてこれと同じだ。結局満ちて覆らないものはない」と弟子たちを諭し、人が中庸の道を歩む大切さを説いたそうです。
「宥坐の器」の制作に関するエピソードを紹介します。
群馬県館林市に在住の板金加工業を営む針生清司さんは、孔子の中庸思想に共鳴し、「宥坐之器」の制作を決意しました。針生さんは孔子の故郷である山東省曲阜まで足を運び、様々な調査をした結果、実際に完成して機能しているものは中国にも存在していないことが分かり、13年間かけ、試行錯誤の末、1992年、ついに「宥坐の器」を復元させました。
針生清司さんが制作した「宥坐の器」は、中国山東省曲阜市の孔子研究院、長崎の孔子廟、岡山県の旧閑谷学校、東京の湯島聖堂、足利市の足利学校、高崎市の東善寺などに寄贈されています。
針生清司は平成11年に日本の「現代の名工」に選ばれています。
足利学校宥坐の器の動画:
※1 全30巻。春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録している。
※2 荀子は紀元前3世紀頃の中国の思想家である。著書は『荀子』で、32編から構成されている。
『荀子・宥坐』中国語の原文:
孔子觀於魯桓公之廟,有欹器焉,孔子問於守廟者曰:「此為何器?」守廟者曰:「此蓋為宥坐之器,」孔子曰:「吾聞宥坐之器者,虛則欹,中則正,滿則覆。」孔子顧謂弟子曰:「注水焉。」弟子挹水而注之。中而正,滿而覆,虛而欹,孔子喟然而歎曰:「吁!惡有滿而不覆者哉!」
(文・一心)