陝西省西安市の大慈恩寺の境内で聳え立つ大雁塔。高さ64メートルの7層の仏塔です。大慈恩寺の境内に建っていることで、「慈恩寺塔」とも呼ばれています。
大雁塔は、紀元652年に5層の塔として建て始め、1556年に7層の塔に改修され、2014年に世界遺産に登録されました。千年以上の歴史を持つ慈恩寺塔は、なぜ「雁」という動物の名前で命名されたのでしょうか。今日は、その名前の由来を紐解いていきます。
紀元648年(貞観22年)。皇太子だった李治が、亡母の文徳皇后の冥福を祈るため、唐の太宗の御許しを得て、都の長安城の東南方面に「慈恩寺」を建立しました。
当時、かの玄奘三蔵法師は、西域から帰国してから3年も経ち、『瑜伽師地論』を訳了した頃でした。皇太子のご厚意を賜り、玄奘三蔵は慈恩寺の上座となりました。火事などの災害から仏経を守るため、紀元652年(永徽3年)、皇帝に即位した李治に申し出て、玄奘三蔵は慈恩寺内に塔を建立し、西域から持ち帰った仏典を保管しました。
磚(煉瓦)で建てられた慈恩寺塔が「雁」で命名されたのは、西域の物語が起源だったそうです。
遥か昔、古代インドの王舎城(おうしゃじょう)にある寺院があります。その寺院の僧侶たちは小乗仏教の信者で、托鉢を行い、三種の浄肉(註)を食べていました。
ある日、僧侶たちは托鉢で十分に食べ物をもらえませんでした。空を見上げる僧侶たちは、空をよぎる雁の群れを見かけました。
僧侶の一人は冗談気味で、「今日は十分に食べ物をもらえませんでした。菩薩様よ、私たちの心の声を聞こえるのではないでしょうか」と言いました。
ところが、群れの先頭を飛ぶ雁はその言葉を聞こえたかのように、自ら落下して、僧侶たちの目の前で死にました。
あまりに驚いた僧侶たちは、これを仏様の御諭しと考え、金輪際、肉を食べないことにしました。僧侶たちは塔を建立し、雁の死体を塔の下に埋め、塔を「雁塔」と命名しました。
一説によれば、玄奘三蔵は西域の旅の途中、王舎城を通る時、この「雁塔」を参拝したことがあります。その由来も熟知している玄奘三蔵は、自分の慈恩寺に建立した塔も「雁」で命名したとか。
大雁塔が竣工してから、宰相で書家の褚遂良(ちょすいりょう)は、二つの碑に文を書き刻み、塔に嵌めこみました。その碑文はそれぞれ、太宗が玄奘の功績に対し書き上げた「大唐三蔵聖教序」と、高宗が書き上げた「述聖記」です。両碑は「二聖三絶碑(にせいさんぜつひ)」とも呼ばれます。「二聖」とは、唐の太宗と高宗の二名の皇帝のことを指します。「三絶」とは、太宗と高宗の二名の皇帝の「御撰(ぎょせん)」、仏法を西域から神州の大地に広めた玄奘三蔵の「偉業」、そして宰相褚遂良の楷書の「高名」の三つを指します。両碑は良好な状態で現存されており、数多くの碑文の中でも絶品です。
唐王朝の末期、都城の長安城は戦乱に翻弄され、大慈恩寺の本殿も戦火によって焼失しかけましたが、大雁塔は幾度か改造されても、依然として聳え立ち、今も長安の町を見守っています。
註:三種の浄肉とは、初期仏教の僧が托鉢の際、自らが戒律中五戒の不殺生戒を犯さない布施の場合は肉食してよいというもの。
(文・杜若/翻訳・常夏)