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 中国の伝統文化は、「修身、斉家、治国、平天下」を説いています。その中の「修身(身を修める)」と「治国(国を治める)」をするには、欲望を抑えることほど大切なことはないと、『群書治要・卷四十七・政要論』が教えてくれました。歴史において、成功した家庭と国には、どれも勤勉で倹約な主導者がいました。一方、家庭と国の没落はほとんど贅沢三昧によるものでした①。

 歴史経典には、古代の聖賢たちの倹約に関する物語がたくさん載っています。今回は、その中の3つをご紹介します。

 倹約な漢文帝 徳をもって国民を教化

 『漢書』は、前漢の文帝・劉恒の倹約と功績を詳しく記録しました。

 『漢書・文帝紀』の記載によると、文帝の在位の二十三年間、宮殿・庭園・ペット・服飾などの調度品を増やすことがほぼありませんでした。宮中で新たに楼閣を建設する計画がありましたが、見積もった建設経費は、当時中流家庭10戸の総資産に相当する金額・百斤の金(1600両の黄金相当)がかかります。これがあまりにも贅沢だと思う文帝は、露台の建設計画を中止しました。

 文帝はよく弋綈(よくてい、黒い厚手の絹織物)で作られた服を着ていました。寵愛される慎夫人も、丈がくるぶしを超える服を着たことがありませんでした。寝室の帳にも文繍を施さないことを徹底しました。文帝自身の陵墓・覇陵の建設にあたっても、金銀銅錫などの貴金属の飾りをせず、全面的に粘土製の器を使用しました。広大な墓を作らず、なるべく倹約したほか、庶民の生活や生産に支障をきたさないようにしました。

 文帝は庶民の生活に非常に関心を持っていました。必要な経費を合理的に配分し、庶民に実益をもたらしました。国内の鰥寡孤独(かんかこどく)などの国の救済対象になる者への救済にも力を入れました。さらに、八十歳以上の老人には、月一回、米、肉と酒を支給し、九十歳以上の老人には、さらに布帛の支給も追加しました。

 文帝は、率先して倹約を励行し、道徳をもって庶民を教化したので、社会が安定し、民衆の生活がとても豊かでした。文帝の治世は次の景帝の代と合わせて「文景の治」と賞賛され、中国古代史で定評のある盛世となり、文帝も賢明な帝王として称えられてきました。

 清廉な諸葛亮 「静を以て身を修め、倹を以て徳を養う」

 『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』によると、諸葛亮は蜀漢の後主・劉禅に、自らの願いをこのように表明しました。

 「私は成都に桑800株、薄田15頃(けい、1頃≒50,265㎡)を持っておるので、子孫たちの生活を賄うには充分なゆとりがあります。私自身も今、職に就いており、衣服や飲食がすべて国から支給されていて余計な出費もないので、他に事業を興して、財を増やす必要がありません。私がこの世を去る時にも、我が子孫たちに余分な資産と金銭を持たせず、陛下の恩寵と信頼を裏切ることがないよう願います②」

 そのように語った諸葛亮は、実際その通りにしました。諸葛亮が死去した時に、自身の遺言により漢中の定軍山に葬られました。山の地形に合わせて棺しか入れない小規模の陵墓を建てられ、ご遺体も普段着のまま納められ、副葬品を一切入れない質素な弔事でした。

 諸葛亮が晩年、八歳の息子諸葛瞻に送った一通の家書には、「君子は、心を静かにすることで修養を高め、質素倹約をすることで品性を養います。物質に淡泊でなければ、人生の目標を明確にできません。静かな心を持っていなければ、遠大な目標を達成できません③」と書きました。この家書は、後世にも伝わる有名な『誡子書』の一つになり、「静以修身、倹以養徳」という言葉も、名句として後世に称えられてきました。

 質素な司馬光 『訓倹示康』の教え

 司馬光は、物質に対して淡泊であり、何かを嗜むことがありません。

 洛陽に3頃の土地を持っていましたが、妻が亡くなった時、司馬光はその土地を売却し、妻の弔事を行いました。彼は一生涯、粗衣粗食の生活をしていました。『宋史』の記録によると、仁宗が崩御した時、各大臣が百万余りの遺贈を賜りました。司馬光と大臣達は賜った遺贈を陵墓の建設金として返上したいと申し出ました。朝廷の許可を得られませんでしたので、司馬光は遺贈された宝石を諌院(かんいん、文官の庁舎)の公的資金とし、遺贈された黄金を伯父に贈りました。家に財を蓄えないことを徹底しました。

 息子の司馬康に送った家訓の中で、司馬光はこのように語りました。

 「徳のある人の基本として、節約ができることです。節約ができれば欲も無くなっていきます④」

 「贅沢な生活を送ると、人は欲深くなります。地位の高い人の欲が深くなれば、財物に目が眩み、正道を踏み外し、災いを招いてしまいます。地位の低い人の欲が深くなれば、膨大に膨れ上がる物欲を抑制しきれず、無断で他人の財に手を出して浪費をし、家を没落させ、命すら落としてしまいます。すなわち、役人が贅沢をすれば、いつか必ず横領をするようになり、庶民が贅沢をすれば、いつか必ず窃盗をするようになります。そのため、『贅沢は最大の悪行だ』という言い伝えがあります⑤」

 贅沢を嗜む社会風潮が息子に影響を与えることを心配する司馬光は、倹約な家風を後世に広め、贅沢で堕落しないことを願いながら、この家訓を書きました。後世に語り継がれる名文『訓倹示康』です。

 註

 ①中国語原文:故修身治国也。要莫大於節欲。傳曰:欲不可縱,歷観有家有国,其得之也。莫不階於倹約,其失之也。(唐『群書治要・巻四十七・政要論』より)
 ②中国語原文:亮自表後主曰:「成都有桑八百株,薄田十五頃,子弟衣食自有餘饒。至於臣在外任,無別調度,隨身衣食,悉仰於官,不別治生,以長尺寸。若臣死之日,不使內有餘帛,外有贏財,以負陛下。」(『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』より)
 ③中国語原文:夫君子之行,静以修身,倹以養徳。非澹泊無以明志,非寧静無以致遠。(蜀漢・諸葛孔明『誡子書』より)
 ④中国語原文:言有徳者皆由倹来也。夫倹則寡欲。(宋・司馬光『訓倹示康』より)
 ⑤中国語原文:侈則多欲:君子多欲則貪慕富貴,枉道速禍;小人多欲則多求妄用,敗家喪身;是以居官必賄,居郷必盜。故曰:「侈,惡之大也。」(宋・司馬光『訓倹示康』より)

(文・秦山/翻訳・心静)