唐の徳宗皇帝(742-805)(パブリック・ドメイン)
唐の貞元18年(802年)、浙江東道の観察使だった裴粛(はい しゅく)が亡くなりました。唐の徳宗皇帝は勅令を発して、副使の斉総を衢州(くしゅう、現在の浙江省)刺史に取り立てようとしました。斉総は長い間、昇進するために庶民の財産を搾り取り、貢物として朝廷に献上しました。それによって皇帝に好かれようとしたのでした。そして今、皇帝は急に斉総を大きな地域の長官に任命しようとしたため、朝廷内部で大きな議論が巻き起こりました。
勅令が門下省に届いた時、大臣の許孟容から差し戻されました。
唐の法律によると、皇帝の勅令は中書省によって起草され、門下省で審査を経たのち、発布することとなっていました。もし門下省が勅令の内容に不備や妥当ではない部分があると判断すれば、勅令を訂正し、書き直すことができました。これを「封駁の権利」と呼ばれています。
許孟容は上奏文を書いて差し戻した理由を次のように説明しました。
「陛下は以前、戦いのときに官吏を破格に昇進させました。しかし現在の衢州には動乱もなく、斉総は特別な政績もありません。陛下は突然彼を昇進させたので、大臣たちも驚いて納得がいかないと感じています」
「もしどうしても斉総を任命されたいのであれば、陛下は斉総の優れた点を大臣たちの前で明らかにするべきです。そうすれば朝廷内外の疑惑を払しょくすることができます」「この勅令の発布を一旦やめていただきたいと思います。そして密かに使いを送り、斉総の行いを観察させるべきです。そうすれば、大臣たちは陛下の明徳にきっと感服することでしょう。現在、謹んで斉総の昇進に関する勅令を微臣の上奏文と一緒に御覧に入れたいと思います。」
許孟容が勅令を差し戻した後、皇帝に進言する責務を持つ諫官からも同じような進言がありました。そこで唐の徳宗はこの勅令を取り消すことにしました。その後、唐の徳宗は許孟容を招き、「もしすべての大臣があなたのようだったら、朕は思い煩うこともないでしょう」と表彰しました。
出典:『旧唐書』卷百五十四・列伝第百○四
(文・洪熙 / 翻訳・宛漣音)