7月20日、鄭州市地下鉄(看中国合成写真、ツイッターより)

 河南省は洪水の深刻な被害を受けており,未だに洪水の脅威から脱していません。中国公式メディアによると、現在、河南省内の30以上のダムの貯水量が警戒水位を超え、そのうち、10以上のダムが決壊に直面しています。中国で近年建設された多くのダムは洪水と干ばつを防ぐ役割を果たしたのでしょうか?河南省鄭州市の水害は、はたして天災だったのでしょうか?

 ドイツ在住の水利専門家である王維洛氏は、ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)とのインタビューで、鄭州水害の4つの要因を分析しました。

 1番目の要因は、鄭州の都市建設企画は水景の美しさしか重視せず、河川の排水機能を無視したことです。

 王氏は以下のように分析しています。常荘ダムは鄭州市の南西に位置し、北部に向かって、半円形で鄭州市を囲んでいる。鄭州の母なる河である賈魯河は他の5、6本の河川からの水と合流し、他に人工的地上河もあり、いわゆる南水北調プロジェクトの中線水路である。これらの河川が鄭州を取り囲んでいる。鄭州は534億元(約9千億円)を費やして、海綿都市(注1)に建設された。賈魯河の見た目に力を入れ、蘇州・杭州のような水都市にしたが、賈魯河の排水能力を重視しなかった。実は中国の都市建設の焦点は給水や排水能力を促進することではなく、不動産を発展させ、GDPを上げることである」

 2番目の要因は、常荘ダムの無告知の放水です。王氏は「これは全くあってはならないことであり、放水規模は周辺河川の積載能力をはるかに超えていた」と指摘しました。

 「現在、私たちが知っているところでは、常荘ダムが20日午前10時半に、放水を開始した。放水直後、堤防の漏水現象が現れた。こういう現象は常荘ダムの13の配管で発生した。すなわち、常荘ダムはすでに使えなくなっていた」

 しかし、当局は常荘ダムを守るため、20日午前10時30分より放水することを決めました。これで鄭州市に前例のない洪水災害をもたらしました。鉄道や地下鉄が浸水され、全市が水の海になり、交通がほぼ完全に麻痺しました。一方、公式メディアは、常荘ダムは20日夜から放水を始めたと述べています。

 3番目の要因は、鄭州の水資源管理者が中国の他の地方と同じ過ちを犯したことです。1975年板橋ダム決壊事故の原因でもあり、つまり、排水より貯水を重視していることです。

 最後の要因は、情報の透明性の欠如です。

 王氏は「習近平氏は22日、河南省各地で水害が起こり、河川氾濫で個別のダムが決壊したと述べたが、これらの情報について外部の人は知るすべもない。私はダム崩壊問題に非常に関心があり、これは私の専門分野もある。しかし、習氏の上記の発言がなされるまで、私は関連報道を見たことがない。同様に、水害による死者数の情報が明らかになるのは、数年、数十年後になるかもしれない」と述べました。

 王氏はラジオ・フリー・アジアとのインタビューで、「鄭州で20日に発生した豪雨は中国豪雨の最大値ではないと断言できる。中国最大の豪雨は1963年、邯鄲市、邢台市、保定市で発生した。1975年に河南省駐馬店地区でも発生した。それこそ、中国豪雨の歴史的な最大値である」と指摘しました。

 鄭州市の被害の原因に対して、天災と人災のどちらかといえばについて、王氏は「今回の水害は鄭州市が発展過程で自ら作ったものにほかならない。当局は鄭州市を設計・建設する際、元々地勢が低い都市を水郷にした。河川や湿地を含む鄭州市を次々と取り囲んでおり、上流の洪水が降ってくると、当然鄭州市の中心部に向かって流れ込む」と述べました。

 河南省現地の気候専門家は、今回の鄭州での豪雨を「千年に一度」と主張していますが、中国の専門家までも反論しました。中央気象台の陳涛首席予報士は新京報の取材に応じ、「1951年以降、中国ははじめて完全な気象記録をはじめた。これまでの歴史を記録してきたデータが70年しかないので、『千年に一度』『百年に一度』などの説は、厳密的に言うと正しくない」と述べました。

 注1:海綿都市(スポンジシティー)とは、関連インフラを整えて、都市がスポンジのように、大量の雨水を吸収し、ゆっくりと河川や貯水池に放出する仕組みである。

(翻訳・吉原木子)