清代・福壽銀錠(パブリック・ドメイン)

 明王朝期、軍隊の給与は軍の専用物資であり、朝廷から支給される。明王朝中ごろ、大臣の韓文(1441年─1526年)は飢饉から百姓を救うために、軍隊の給与を利用した。

 韓文は、北宋の名宰相・韓琦(1008年─1075年)の子孫だ。韓文の名前といえば、一つの由来がある。「明史」によると、韓文の誕生日に父親がある夢を見たという。紫色の服を着た人が、宋の名宰相・文彦博(1006年─1097年)を彼の家に送ったのだ。父親は眠りから覚めた時、生まれたばかりの息子を韓文と名づけた。

韓琦(1008年ー1075年)中国北宋の政治家。(パブリック・ドメイン)

 韓文は勉学を励み、成化2年の試験で進士に合格し、仕官することとなった。最終的には兵部尚書(国防長官)と戸部尚書(財務長官)まで上り詰めた。

 ある年、南京は収穫が悪く、凶作となった。食糧価格は2倍に暴騰し、庶民は米を買うことができなかった。被害が激しくなるにしたがって,食糧価格もますます高くなった。

 当時、韓文は兵部尚書になっていた。食糧価格の高騰を抑えなければ、住民の不満はさらに高まり、激しい暴動が起こる可能性があった。その時、たとえ軍を出動させて暴動を静めることができたとしても、庶民や社稷に害を及ぼすのは必至だ。至急、米価を平時に戻し、庶民の怒りを和らげ、民に恩恵を施して始めて目前の苦境を打開することができる。

 韓文は妙策を思いついた。それは三か月分の給与を繰り上げ支給することだった。軍の給与には、金銭と糧食が含まれている。韓文は3か月分の給与を繰り上げ支給することで米価を調整し、庶民を救済したいと考えていた。

 しかし、軍の専用物資である給与は決まった時に支給する決まりだったため、戸部の官吏は難色を示した。韓文は、「飢饉を救うことは、火を消すことと同じだ。急ぐ必要がある。皇帝がもし咎めるならば、私一人で責任を負う」と述べた。

 そこで戸部は倉庫から十六万石の米を支給し、結果として米価は急速に安定し、起こりえた暴動を未然に防いだ。韓文はこの功绩のため、翌年に戸部尚書に昇進した。

出典:『明史』卷一百八十六・列伝第七十四
『八徳須知全集・韓文救荒』

(翻訳・柳生和樹)