魏晋
魏晋時代の規定により、朝廷に出仕する官員は朱色の官服、普段着は紫色の服の着用が必須でした。一般人の服は白色でした。「襦」と「裙」は依然として主流の服でした。「裘(かわごろも)」は出現しましたが、フォーマルの場面では着られませんでした。服の生地から見ると、朝廷内外の差がはっきりとしていました。また、この時期には、金の環(首飾り)、銀の約指(指輪)、そして腕に纏う跳脱(腕輪)など、女性の装身具にこだわりが出始めます。
唐
唐王朝期は、古代中国の文化・芸術が発展して繁栄していた時期でした。唐王朝期の服飾も、多種多様な変化を見せ、古代中国の服飾文化においては珍しく優れたものとなりました。特に唐王朝期の女性の服飾は、歴代王朝においても抜きん出ます。
唐王朝期において、「仕女(官女)」の服装の最大の特徴は、裙を胸まで引き上げ、肩と胸の上部を露出することです。五分袖の襦と裙に、盛唐時期から流行になった広袖の上衣・大袖衫(だいしゅうさん)を羽織り、披帛(ひはく)というストールをかけるのがトレンドでした。
また、唐王朝期に「大帯制度」という規定あり、官民の階級により、帯飾りに使用できる素材と数量が異なっていました。例えば、一品の官員は帯に刀子(日本の小柄(こづか)に相当)をつけることができます。三品までの官員は玉の帯をつけることができます。四品と五品の官員は金の帯をつけ、六品と七品の官員は銀の帯をつけることができます。一般人は、帯に銅や鉄の帯飾りや小刀しかつけることができませんでした。
宋
宋王朝には、大枠3種類の服装がありました。貴族女性たちが着用する「公服」、一般人が冠婚葬祭で着用する「礼服」、そして日常生活で着用する「常服」の3種類でした。
宋王朝において、官員たちの服は極めて贅沢を尽くしましたが、一般人の服装にも一般人なりのこだわりが伺えます。服の生地へのこだわりだけでなく、身だしなみにも工夫をしていました。髪を結んで肩まで垂れ流すため、髪の生え際を波形にして金色の鳳凰の髪飾りをするなど、様々な髪型の変化も見せました。貧しい人々でさえも、切り紙で髪を飾ったり、刺繍入りの履物を履いたり、香りを身に着けるなど身だしなみを重んじていました。
元
元王朝で幅広く着用されたのは、漢民族とモンゴル族の特徴を持ち合わせた「質孫服(しぞんふく)」でした。「質孫」とはモンゴル語の「一色」という意味の音訳で、生地の違いで階級を分けていました。天子の質孫服も、生地の違いによる、冬服と夏服でそれぞれ15ずつの階級が存在しました。官員たちの服にも数多くの階級が存在しました。
元王朝期では、貴族女性と一般人女性は異なる服を着用していました。モンゴル人の多い貴族たちは、遊牧民族の特徴である皮革製の衣装を着用していました。地面まで垂らすゆったりとした長衣に、「雲肩」という肩掛けをかけて、とてもきらびやかに見えました。一方、一般人女性は漢民族の襦裙を着用していました。
(つづく)
(文・辛慧/翻訳・常夏)