宋王朝時代の将軍(左から二番目と四番目)と兵士(左から一番目と三番目)の官服 南宋・劉松年「中興四将」の一部(パブリック・ドメイン)

 古代中国の服飾は、中国伝統文化の象徴でありながら、中国の歴代王朝の芸術文化の具現でもあります。そして、王朝の交代とともに、古代中国の服飾も変遷してきました。ここで、中国の歴代の王朝の服飾文化を簡単に紹介します。

 商

 史料によると、三王五帝の堯の時代から、中国の土地に衣服が出現し、木の葉を衣にする時代が終わりました。そして商王朝で出現した文字・甲骨文字には、「衣」「履」「黄裳(元吉)」「袂」など、服飾に関する文字が見つかります。

 商王朝の出土品には、佩玉(はいぎょく)、玉の環(たまき)、耳飾り、首飾り、笄、櫛、そして銅製品などのアクセサリーや、絹、麻の衣料品が見つかります。これらのよくできた衣料品と装飾品は、当時の貴族特有のものです。

 そんな貴族たちの装いには、黒の上衣と黄色い下衣が特徴です。これは、上天と大地への崇拝によるものだと言われます。当時の人々は、夜明け前の空の色は「玄」と呼ばれる黒色で、地の色は黄色だと観察していました。天を上衣に当て、地を下衣に当てるため、黒の上衣と黄色の下衣が商王朝貴族の服飾の特徴となりました。

 西周

 西周王朝期より、服飾には階級間の差が鮮明になり、服飾の種類も次第に多くなります。祭祀、朝廷、軍事や冠婚葬祭など、様々な場面によって、それぞれ専用の服飾が出現しました。黒の上衣と黄色の下衣という商王朝の旧制を踏襲しましたが、官吏の制服・官服(かんぷく)には、裳の前襟にある大帯(だいたい、革帯⦅かくたい⦆の上に着用する四寸幅の絹織物の帯)と玉佩(ぎょくはい、腰当たりにつける絹の紐で繋がった玉の帯飾り)などが現れました。服の色にも階級の差が現れました。

春秋時代の楚国の漆画「王孫親迎図」局部(パブリック・ドメイン)

 戦国時代

 戦国時代、「戦国の七雄」と呼ばれる7つの諸侯国において、それぞれの変化を現します。広幅の縁飾り(パイピング)が施された、ゆったりとした巻き式の下衣・「裙(くん)」が当時の代表的な服飾となりました。前身頃から後ろ身頃へ巻いて着る「裙」は、薄い生地で作られていました。繊細な生地だけだと身動きに支障をきたすため、錦などのコシのある生地で広幅の縁飾りを施し、その縁飾りの上にまた雷紋(らいもん)の模様を施します。これは「衣が繍、錦が縁」という服の作り方から、デザイン性と実用性を兼ね備えた古代中国の服飾設計の知恵が垣間見えます。

 

 陰陽五行思想によると、周王朝は「火」にあたります。周王朝に勝った秦王朝は「火」に勝つ「水」に当たります。この思想を信じた始皇帝は、「水」を代表する黒色を地位の高い色とし、黒色が当時のトレンドカラーになりました。

始皇帝の図。黒色が当時のトレンドカラー(パブリック・ドメイン)

 

 200年も続いた前漢王朝では、「深衣」の着用が制度化されていました。「深衣」の特徴は、蝉の冠飾りに朱色の衣、玉佩をつけて朱色の履物を履いていたということです。一枚の羽織として着られる「禅衣」もありました。朝廷に出仕する時には、黒を基調とし、縁飾りが赤で限定された「祭服」の着用が必須でした。服の形では、官と民の区別はできませんが、服の生地や色から階級の差が鮮明に伺えます。

 後漢王朝は、国の「火の徳」を示すように、赤色を最も尊い色としました。官員たちも季節の変わり目に衣装の色を変えるというルールを制定しました。それは、春に青色、夏に朱色、季夏(晩夏)に黄色、秋に白色、そして冬に黒色の「五時服色」のルールです。また、皇后様の祭祀服は紺色の上衣と皂色(くりいろ、茶色がかった黒色)の下裳でした。

 前後漢王朝ともに、一般人の女性は丈の短い「襦」という上衣と「裙」という下衣を着用し、膝を覆うほど長い腰帯をつけていました。また一般人の男性は、上衣に「襦」、下衣に「犢鼻褌」というふんどしを着て、その上に木綿の「裙」を着用していました。このような服装は、士農工商分け隔てなく、みんな同じでした。

新密市打虎亭後漢墓の「宴飲百戯図」(パブリック・ドメイン)

(つづく)

(文・辛慧/翻訳・常夏)