中国で最も波瀾万丈な時代と言われる三国時代。曹操、諸葛孔明、周瑜、劉備、孫権の5人の豪傑を中心に、二千年前から伝わってきた物語と逸話の数々は、「義」という文字の意味を、後世の人々の心に深く刻みこみました。天に従って国を治める義、君臣共に肝を砕く義、義兄弟の契りを結ぶ義、軽んじる利と重んじる義、命をかけてでも守るべき義、義をもって挙兵するなどなど、数え切れません。
今回、紹介するのは、荀攸(じゅんゆう)、典韋(てんい)、郭嘉(かくか)の三人の賢士のために、何度も涙を流した曹操の義の物語です。
荀攸のための一度泣き
『三国志・魏書・荀攸伝』の記載によると、知略に長ける荀攸は、曹操の謀士になってから、多くの優れた智謀を示しました。曹操は荀攸に多大な信頼を寄せて、高く評価していました。息子の曹丕に「荀攸は世の中の模範として見習うべき人間だ。礼儀正しく接してあげなさい」と教えたほど、曹操は荀攸を常に認めていました。
しかし、荀攸は孫権を征伐する途中で体の不調を訴え、死去してしまいます。享年は58でした。曹操はその死を大層悲しみ、彼の話をするたびに涙を流しました。
典韋のための二度泣き
大きな双戟(双鉄戟)を愛用し、人並外れた勇猛な典韋。曹操の配下の中でも抜きん出た武将でした。
曹操が荊州の張繡を征伐し降伏させたあと、張繡が謀反を起こし、曹操軍を包囲しました。曹操に随行している典韋は、曹操を逃がすべく、死を覚悟して一人で十人を相手に激しく戦っていました。典韋の部下が死傷していく中、必死で時間を稼いでなんとか曹操を逃した典韋でしたが、次々と押し寄せる敵軍に首を取られてしまいました。張繍を撃退した曹操は、すぐさま典韋の告別式を開き、泣き崩れました。「息子と甥もこの戦で亡くしたが、わしはこれほどまでには悲しくなかった。典韋の死はどんなに泣いても、いくらでも涙が出るほど悲しかった」と、身辺の将兵たちに語ったそうです。
翌年、曹操は再び張繍を征伐するために挙兵しました。進軍する前に曹操は突然、号泣し始めます。「わしの典韋将軍は去年この地で帰らぬ人となった。これを思い出すと、いくら泣いても涙が止まらない」これを聞いた周りの将兵たち全員は、曹操の義に心打たれました。
郭嘉のための三度泣き
策士・郭嘉(字は奉孝)のために、かの乱世の奸雄は三度も泣きました。曹操が郭嘉に捧げた涙は、千年の時を超えて、無数の人々の心を揺さぶります。
一度目の泣きは、紀元207年、曹操が郭嘉の進言を受け、遼西の烏桓族を征伐する途中でした。遼西の砂漠を進軍するのはとても過酷で、病弱な郭嘉も風土病にかかり病臥します。心配する曹操は郭嘉を見舞い、「わしが砂漠を進軍するだけで、きみまで跋渉させてしまい、病気に罹らせてしまった。こんな状態で安らかに居られまい」と涙しながら言いました。曹操の言葉に郭嘉は胸が熱くなり、「主公から大きな恩情を受けた私は、命を懸けて尽くしても、その恩情の万分の一にも報いる事ができません」と答えました。
風土病に罹ってしまった郭嘉は、遼西から帰還の後、そのまま病死してしまいます。享年は37でした。曹操の二度目の泣きは郭嘉の葬儀でした。「奉孝の死は、天がわしに死ねというのも同然ではないか」と悲嘆した曹操は、配下たちに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。後事を彼に託すつもりだったが、まさかこんなにも若くして亡くなるとは」と大変悔やみました。郭嘉のような逸材を失い、曹操はどれだけ悲しんだことか切に伝わります。
そして三度目の泣きは、赤壁の戦いの後のことでした。郭嘉が亡くなった翌年の紀元208年、曹操は劉備と孫権を討ち、天下統一を目指そうとしました。しかし、孫劉連合軍に大敗し、百万人の軍隊を失くしただけでなく、関羽の黙認のもとに余儀なく華容道から敗走せざるを得ませんでした。なんとか一命を取り留めた曹操は、策士と食事をしているとき突然、慟哭してしまいしました。理由を尋ねられた曹操は、「わしは郭嘉のために泣いたのだ。もし郭嘉がまだ生きていれば、わしはこのような大敗に遭うことなんてなかろう」と天に向かい悲嘆しました。
三人の賢士たちにより絞りとられた涙は、曹操の一生分の涙であったと言っても過言ではありません。それは、いくら天下を治めても、そこに彼ら賢士たちが居なくては、何の意味があるのかという「義」の涙でした。三人の賢士たちの死を、血縁の者の死よりも悲しんだことがその証ではありませんか。
曹操は、歴史上悪役とされ続けてきました。しかしそれだけが彼の全てではなかったのです。曹操は彼ら賢士を、天下を治める為だけに利用する道具ではなく、身分の差に関わらず、大切な人として扱っていました。実は「義」のための人生を送ったのです。曹操の涙は、まさに「義」そのものとも言えるのでしょう。
(翻訳・常夏)