李沆(りこう、947~1004)(パブリック・ドメイン)

 李沆(りこう、947~1004)は北宋の名宰相の一人であり、宋の真宗皇帝の教育役でもあった人物だ。彼は道徳性と知恵に優れたことから後世からは「聖相」(知徳の優れた宰相)と呼ばれている。李沆に関する事績は、正史に記録されたもののほか、歴代の文集の中にも収録されている。

 李沆は政績が卓越であったのみならず、その道徳と品行も後世の模範であると褒め称えられている。彼が寛大で思いやりのある有徳者であったことは、複数の文献に記されている。

書生から非難されるも丁寧に対応する

 李沆が宰相であったとき、ある日若くて勢いのある書生に会った。書生は李沆の馬を引き留め、書状を突き出しその政治の欠点を一つひとつ指摘した。
「家に帰ってから詳しく拝読します」と李沆は謙虚に謝った。

 書生は激怒し、多くの人の前で怒鳴りつけた。「あなたは高官なのに民心をよく安定させることができず、そのうえ職を辞して他の人に譲ろうともしない。あなたは長い間、賢人が国のために尽力するのを邪魔して恥ずかしく思わないのか」

 李沆は「何度も辞職しようと思ったが、皇帝が許してくれないので職務を投げ出すわけにはいきません」と丁寧に答えた。若い書生と話しをしているときに李沆は怒りの表情を浮かべず、平然としていた。

逃げ出した召使の娘を育てる

 李沆の家にいた一人の召使が家賃を滞納したため、夫婦二人で夜逃げしてしまった。この召使はもうすぐ10歳になる可愛い娘が一人いた。その娘は自ら負債額を紙に書き、自分の腰にかけた。両親の負債を返済するため、李沆の家で奉公しようとしたのだ。

 李沆は彼女に哀れんだ。そして妻に対し、「この娘を愛情込めて育ててほしい。婦人の道徳を教え、大人になったら立派な婿を紹介して、自ら結婚式を取り仕切ってください」と言った。

 李沆の妻は言った通り、召使の娘を大事に育てた。彼女が成年になった時、李沆の妻は自ら優秀な婿を選び、嫁入り道具を準備し、そして嫁に行かせた。彼女はとても心が優しく、女徳をしっかりと守り、夫の家族を支えた。

 その後、召使夫婦が帰って来た。娘の事を聞いて彼らは李沆の恩徳を心に刻みつけた。李沆の死後、夫婦二人は三年間喪を服し、恩返しした。

 李沆は宰相として厳粛で寛大な態度を取り、浮ついた風紀を抑えた。李沆は家族や兄弟とも仲良く暮らし、宋の太宗皇帝からは風度端凝,真貴人也と称賛された(宋史/卷二百八十二 列伝第四十一・李沆)。

 『尚書』の中には「必有容,德乃大。必有忍,事乃済(包容力があって初めて徳を修めることができる、忍耐力があって初めて物事をやり遂げることができる)」という言葉がある。度量が広く包容力があり、他人の過ちを受け入れることが出来、そして他人の長所を認めることができる人間こそが美徳を備わることができる。逆境の中でもくじけず努力することができ、度量を広げ苦痛に耐え能力を身に着けることができれば、大きな業績を成し遂げることができる。見知らぬ書生と負債を負った召使に対する李沆の寛容と包容はまさに後世の模範とすることだ。

出典:清・史玉涵『徳育古鉴・性行類』

注:
『尚書』:『書経』(しょきょう)は中国古代の歴史書で、伝説の聖人である堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文などが記載されている。『尚書』または単に『書』とも呼ばれ、儒教の重要な経典である五経の一つでもある。(ウィキペディア)

(文・洪熙 / 翻訳・宛漣音)