国家安全部の副部長董経緯(ツイッターより)

 7月1日は中国共産党(以下、中共)の党創建100周年記念日である。現在、党内に極めて張り詰めた空気が溢れているのは、中共が最も懸念していることの1つ、高官の離反亡命事件がまた起きたからかもしれない。なぜなら、最高機密を握っている高官が海外に亡命すれば、中共政権にとって致命的な打撃になるからだ。

 本記事では、中共創立以来、4つの重大な離反事件をまとめた。

 章家敦(とん)氏「董経緯の亡命が事実であれば、中共は一夜にして政変するだろう」

 国家安全部副部長の董経緯(とうけいい)氏が2月に米国へ亡命したと、多くの英語系及び中国語系メディアが報じた。この衝撃的なニュースが事実だとすれば、中共結党以来最高位の幹部離反事件となる。

 AP通信4日の報道では、FOXニュースの司会者・カールソン氏の話を引用した。ある米情報界の関係筋がアメリカの保守的な政治ブログ「レッド・ステート(Red State)」に対し、「史上最高位の中共亡命者」が、アメリカ国防情報局(DIA)に3ヶ月間協力し、中共の「生物兵器計画」などの情報を、提供したとのこと。

 「レッド・ステート」の独占報道によると、同亡命者は、生物兵器計画を含む中共の特殊兵器に「直接関与している」という。DIAは、同亡命者と緊密なコンタクトを取り、中央情報局(CIA)や国務省からの接触を遮断している。その理由は、FBIやCIAなどの機関に、中共のスパイがいると考えられているからだ。

 「レッド・ステート」は17日、亡命者は国家安全部副部長の董経緯氏であることに、間違いないと報じた。報道によると、中国の特殊兵器システム、中国軍の武漢ウイルス研究所での研究詳細、新型コロナウイルス感染症(武漢肺炎、COVID-19)の起源に関する情報を、董氏が把握しているという。そのほか、アメリカにいる中共スパイの名簿、中共政府からの資金援助をうけたアメリカのビジネスパーソンと政府関係者の財務記録、在米中国留学生の3分の1が中国軍の背景を持つという、衝撃的な情報をも把握しているそうだ。

 中国問題の専門家のゴードン・G・チャン(章家敦)氏は「董は習近平との関係が非常に密接であり、多くの情報を入手することが可能である。董のアメリカへの亡命が事実であれば、中南海(中共中枢)は一夜にして転覆させられる可能性がある」と指摘した。

 また、米共和党全国委員会(RNC)の上級委員であるソロモン・ユエ( Solomon Yue)氏は「この事件は爆弾レベルでなく、核兵器レベルとも言えるだろう。私の予測では、この事件は中共を全面的に失脚させる可能性がある」とコメントした。

 顧順章の離反 周恩来が逮捕されかけた

 顧順章(こじゅんしょう)は、中共結党早期の指導者の一人で、中共の機密特務機関「特別行動科」のリーダーを務めた。かつて元国務院総理である周恩来に協力し、中共からの離反者を数多く殺したという。

 1926年、顧は中共の派遣によりソ連に向かい、スパイ技術を研修した。帰国後、顧は1927年4月に「臨時中央政治局委員」兼「中央交通局局長」に選ばれ、「特別行動科」を任された。その後、顧は表向きは「有名な手品師」であり、長い間、上海で周恩来と一緒に中共の地下活動に携わってきた。

 1931年、蒋介石の率いる国民政府に捕まった顧は降伏し、中共の機密情報を大量に提供した。その結果、上海などでの中共地下活動拠点がほぼ全滅させられた。武漢にいる中共連絡拠点の人員も捕まり処刑された。当時国民政府の監獄にいた身分がばれていない中共幹部の惲(うん)代英と、香港にいた蔡(さい)和森も処刑された。周恩来本人も逮捕される寸前だった。顧の離反は中共に多大なる打撃を与えた。

 顧に復讐するため、周恩来は1931年6月、「特別行動科」を率いて、顧の家族と親友30人あまりを暗殺し、死体を埋めた。その後、暗殺に関与した「特別行動科」の主要メンバー王世德が国民政府に捕まった後、死体の埋葬地を白状し、警察官を連れて死体を発掘した。後に中国全土を揺るがした「海棠(どう)村死体発掘事件」となった。

 中共中央規律検査委員会(以下、中紀委)は今月19日、顧順章事件に言及したトップ記事を掲載し、中共が顧の離反後に発令した「第二二三号通知」を掲載し、「永遠に党を裏切らない」ことを4回も強調した。

 本社所属の時事評論家蘇文寅(いん)氏は「中共は結党当初から裏切り者に対し、当人を処刑するだけでなく、その家族まで殺害していた。今、中紀委が顧順章事件を振り返ったのは、海外に亡命した者は顧順章のように、家族まで殺されてしまうという脅迫なのではないか」と指摘した。

 また、ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)が掲載した評論記事も「中紀委が顧順章事件を数十年ぶりに振り返ったのは、中共党員の絶対的な忠誠心を要求するものだ」との見解を示した。

 林彪の離反 文化大革命のターニングポイント

 林彪(りんぴょう)の離反亡命は、「文化大革命(以下、文革)」において、最も重大かつ衝撃的な政治事件であり、文革の沈静化をもたらすターニングポイントとなった。

 林彪は毛沢東の「最も親密な戦友」とされ、第9回党大会で毛沢東の後継者として公式に認定された有名な軍事家である。林彪は妻の葉群と子の林立果とともに、1971年9月13日未明、ジェット旅客機(シリアルナンバー256)に乗って山海関空軍基地から、ソビエト連邦に亡命する途上、モンゴル人民共和国のウンドゥルハーン郊外で搭乗機が墜落し、機内全員が死亡した。これは「9・13事件」となった。

 「中華人民共和国元帥(十大元帥)」の一人である林彪は、中共党内最も戦争が得意な軍事家と評価された。1949年以降、林彪は国務院副総理(第一副首相)、中共中央委員会副主席、国防部長(国防大臣)、中共中央軍事委員会第一副主席などを歴任した。

 1966年、毛沢東は自身の絶対的権威を強めるために、文革を発動し、自身が認定した一人目の後継者・劉少奇元国家主席を打倒した。劉が打倒された後、第8期11中全会において、林彪は唯一の中共中央副主席となり、党内序列第2位に昇格した。

 しかし、文革において、毛は林の率いる軍隊を撹乱し、林の反感を招いた。その後の3年余りにおいて、早く文革を終わらせたい林は、表面上は毛に「追随する」一方、 毛と距離を置きつつあった。1971年8月、南方を視察中の毛は、林との不仲を中共幹部に示唆し、林を打倒することに着手し始めた。これを把握した林は亡命を試みて墜落死した。

 林の死亡事件は当時、特に毛にとっては大変衝撃的なニュースであった。「9・13事件」のわずか数日後に毛は心臓発作を起こした。そして1972年2月12日に突然気絶し、20分の救助でようやく意識を取り戻したという。また、「党内序列第2位の副主席林彪は、毛沢東が認定した後継者なのに、なぜ亡命なんかするのだろうか」という、動揺が中国全土に広がった。

 1981年6月27日、中共当局は林彪の離反事件を定義した。

 林彪の死は、中国全土で広範囲の思想解放運動を引き起こし、人々は、毛(沢東)思想の行為と人格を疑い始めたと言われている。

1969年、毛沢東(左)と林彪(右)(パブリック・ドメイン)

 兪強声の離反 アメリカに潜伏したスーパースパイが自殺

 1985年5月、中国国家安全部対米国情報工作の当時の総責任者、北米情報司の司長、外事局の主任だった兪強生(ゆきょうせい)が、米国に政治亡命した。兪が提供した証拠で、CIAで約40年間潜伏していた中共のスーパースパイである金無怠(Larry WuTai Chin)の正体が明らかになった。この離反事件は中共に多大な打撃を与え、中共史上最も重大な離反事件の一つとなった。

 1940年生まれの兪強声は、北京の国際関係学院を卒業後、1960年代に北京市公安局一処(政治保衛処)に入り、1980年代に北京市国家安全局の処長と司長を歴任した。兪の亡命は中共の逆鱗に触れ、中共は暗殺者を派遣し兪の暗殺を行った。公開された機密文書によると、身分を変えた兪はまだ生きているという。

 兪の離反で明らかになったスーパースパイである金無怠は、1922年北京生まれで、当時のトップ大学燕京大学の新聞学科を卒業後、1948年より、駐上海米国領事館で通訳を務めた。後に米国の情報機関に37年間も潜伏していた。発覚されるまで、アメリカの東亜政策研究室の主任を務め、米国政府の対中政策の制定に決定的な研究報告を提出したほか、米国政府の対中政策とレッドラインなどの極秘情報を中共に渡し続けていた。

 金が逮捕された後、中共は金がスパイであることを完全に否定した。一方、ボイス・オブ・アメリカが2015年の番組で公開した機密文書によると、金は、数多くの米国のトップレベルの極秘文書をマイクロフィルムに撮影し、中共に渡し続けていた確かな証拠があった。

 1986年2月、米国裁判所は金に対し、6のスパイの罪と11の詐欺と脱税の罪を含む17の罪が成立すると判定し、同年3月4日に刑罰を実行すると決定した。金は中共当局に対し、旧ソ連のように人質交換をし、自分を救出するよう助けを求めたが、中国当局に「金無怠という人物をまったく知らない」と突き放された。金は絶望のあまり、獄中で自殺した。

(看中国記者・苗薇/翻訳・常夏)