隋の文帝である楊堅(よう けん、541年7月21日ー604年8月13日)(パブリック・ドメイン)

 隋王朝の開皇(かいこう、隋王朝初代皇帝の年号、581年 – 600年)年間の最後の年、当時の司法界を揺るがす大きな事件が起こった。李参以下70名の罪人が捕らえられ、労役に服するため首都へと護送されていた。山東省済南の将軍・王枷が責任者として罪人たちに同行した。当時のしきたりとして、犯人を護送する場合、重い首枷(くびかせ)を着けさせてから目的地に向かうことになっていた。

 これらの犯罪者たちは、首枷と鎖を掛けられると、思うように身動きがとれず非常に苦しかった。そのうえ家族連れの者も多く、役人が食事を運んだり世話をしたりと大変な苦労だった。

彼らが河南省まで行った時、王伽は「今はまさに師走の厳冬であるから、仮に都に辿り着けたとしても、これらの者は凍え死か疲労のために死ぬだろう」と思った。

 そこで王伽は、犯罪者達を呼び集めて言った。「お前たりは国の法律に違反したのだから、きつい労働をさせられているのは当然のことである。すでにお前たちの妻子は巻き添えを食い、生活上の困難に遭っている。しかも、国の公務にも支障が出ている。恥ずべきことをしたと思わないか?」

 李参らは面目なく思い、「みんなに迷惑をかけてしまい、確かに心苦しい」と言った。

 王伽は「お前たちは国法を犯したのだが、このような重い首枷や鎖を着けさせられては、さぞ辛かろう。今から役人を呼んで、首枷と鎖を取り外してやろう。そうすれば皆が身軽になって道を急ぐことができる。都で落ち合うことにしようと思うが、時間通りに到着することを約束できるか?」と言った。

 犯罪者達は、事の意外さに大変驚き、口々に「絶対に都へ時間通りに着くことを約束する」と言った。王伽は彼らに集合場所と時間を告げると更に言い含めるように言った。「もしお前たちが期日通りに着かなければ、わし一人がお前たちのすべての罪を引き受けなくてはならない」と言った。そして役人達を先に帰らせて、王枷自身も離れて行った。

 結局、罪人たちは全員約束の日に到着し、一人として逃げたものはいなかった。王伽はすぐに彼らを役所に連れて行き、事の次第を報告した。当時の民衆は、罪人がこれほど信義を重んじた話を聞いたこともなければ、役人がこのように仁義のある行いをしたこともなかったので、この話はあっという間に都中に知れ渡った。そして最後には宮中にまで伝わり、隋の文帝の耳に入った。文帝はとても驚き、すぐに王伽を宮中に呼び寄せた。隋文帝は王伽に具体的に事情を説明するよう言った。王伽は隠し立てせずありのままを隋文帝に報告すると、隋文帝はしきりに頷き、王伽を称讃して言った。「そなたの心は慈愛に満ちており、国にそなたのような官吏がいれば、犯罪者を管理することも簡単になるだろう」

 隋文帝はこれらの犯罪者達に妻子を連れて宮殿に来るよう伝え、彼らのために宴を開き、彼らの罪を赦免した。

 昨日までただの囚人だった者が、今日は皇帝の賓客になるなど誰が予測できるであろうか。それらの罪人は刑罰を受けることなく、自ら悔い改めて国家の善良な民となったのである。

 隋文帝は感慨深げに言った。「これまで人の心を教化することはなんと難しかったことか。もし皆が王伽のように至誠の心を持ち、李参たちのように心から良い人になろうとすれば、なんと良いことだろうか。そうなれば、将来には刑罰もいらなくなり、人々が自らの意思で善に向かって自らを改めることができるだろう」

出典:「隋書」巻七十三 列伝第三十八 循吏・王伽

(翻訳・夜香木)