中国共産党(以下、中共)国家安全部の董経緯副部長が「離反して米国に亡命」説について、董氏は会議に現れたが本人が映っている写真を公開しなかったという公式記事(18日)があり、いまだに謎に包まれている。一方、中共の一連の政治的裏操作は外界に疑問視されている。国家安全部は間接的に「裏切り者を捕まえる」をほのめかしている疑いがあるだけでなく、中央規律検査委員会も、中共政権が成立する前に蔣介石に亡命した、顧順章のことを再び蒸し返した。一部のコメンテーターは、顧順章一家は周恩来に殺されたため、これは中共から亡命者への脅しであると分析した。
https://youtu.be/xS6T3o_L0bU
中央規律検査委員会ウェブサイトでは19日、中共の初期の指導者である顧順章が、蔣介石に亡命した経緯に再び言及する見出し記事を掲載した。記事では「絶対に党を離反しない」ことを4回も強調した。
同記事は「顧順章は1924年、上海工会連合会で働く時に入党した。1926年に中共に選ばれ、旧ソ連に派遣されて政治保衛を勉強した。顧順章は離反する前、すでに中共中央政治局の補欠委員であり、秘密工作(スパイ)組織の責任者を務めていた。党中央委員会全体の安全を担当していたとも言えるだろう」と記した。
顧順章と周恩来は長い間、上海で中共の地下活動を行っていた。1931年、顧順章は逮捕された後、国民政府に亡命し、中共の核心的な機密を大量に告白した。そのため、当時上海などにあった中共の地下機関は、ほぼ完全に破壊されてしまった。これは、中共にとって極めて大きな打撃となった。
中央規律検査委員会の記事では、1931年5月21日に中共が緊急通達第223号を出して、顧順璋を反逆罪で党から追放したことを公表した。
公開されている情報によると、1931年6月、周恩来は、男たちを率いて顧家とその親族・友人の首を絞め殺したという。上海フランス租界の甘斯東路愛棠村11号、共同租界武定坊32号、及び新閘路斯文里70号などで数十体の遺体が掘り出され、全国に衝撃を与えた凄惨な状況であったという。この事件は上海の人々に中共の本質を認識させた。
董氏が亡命したかどうか、あるいは逃亡者が別人なのかどうかはまだ不明である。しかし、党創建100周年という政治的に敏感な時期に入ると、社会安定への維持を強めるだけではなく、中共のトップ層と公式メディアが一斉に党への忠誠心を強調している。
(翻訳・吉原木子)