前漢・劉向『列女伝』挿絵(パブリック・ドメイン)

 鄧蔓(とうまん、生没年不詳)は春秋時代の楚の武王である熊徹(?―紀元前690年)の賢い妃であり、楚の文王の実母である。彼女が天道に精通し自然現象から吉凶禍福の兆しを察知することができ、人や物事を見分けることができたため、後世にわたり称賛されている。

 熊徹が楚国の君主であった時、楚国の国力は大きく増加し、熊徹は中原(ちゅうげん)の支配権を握りたいと思った。そこで、地方の諸侯と盟約しようとした。大臣の鬭伯比(とうはくひ)は熊徹に、「必ず周の桓王から王の名号を貰わなければなりません。そうしなければ、討伐の権利が得られません」と進言した。熊徹はすぐに王号をもらいに周の桓王のところに行ったが、周の桓王に拒絶されてしまった。そのため熊徹は腹が立って、自ら楚の武王と名乗ることにした。周辺の小国は皆、祝意を表すため貢献にやって来たのだが、随、鄖、絞、羅の4国だけが祝意を述べに参内しなかった為、楚の武王は非常に怒り、これらの国に攻め込むことにした。
 
 楚の武王42年(公元前699年)、大将屈瑕(?-前699年)は楚軍を率いて羅国に討伐に向かっていた。大臣の鬭伯比は見送りに行き、戻って来る道すがら、馬車係の侍従に向かって「わしが見るところでは、屈瑕の今回の討伐はきっと負け戦となるだろう。彼の歩く姿は、つま先が高く上がり気迫も旺盛だが、気持ちが不安定になっている」

 鬭伯比は宮中に戻ると楚王に、今回の屈瑕の羅国への攻撃は、やはり援軍を派遣すべきだと伝えた。しかし楚の武王は、楚の軍隊は勇猛であり、ほとんどすべての精鋭な兵士が屈瑕について行ったので、必ず勝つであろうと思い、援軍を派遣する必要はないだろうと高を括っていた。

 楚の武王は宮廷に戻った後、鄧蔓に鬭伯比の言ったことを話した。鄧蔓曰く「鬭伯比はけっして援軍の派遣を頼みたいというわけではないと思います。鬭伯比の考えは、大王様に誠実さをもって小国の庶民を落ち着かせ、道徳をもってすべての官吏を訓戒し、刑罰を以って屈瑕を抑止してほしいということです」「屈瑕は以前、山西省の蒲騒で勝ち戦をし、手柄を立てたことにより驕りの気持ちがあるので、羅の国を軽く見ています。もし大王様が恩義と威厳をもって屈瑕に接しなければ、屈瑕はきっと警戒をゆるめて用心しないでしょう」

 楚の武王は、はっと悟り、慌てて屈瑕の後を追うように派兵させたが、すでに間に合わなかった。屈瑕は人となりが頑固で独りよがりになっており、かつて屈瑕を諫めた者は誰であっても殺されてしまった。今回も結果的に負け戦となり、進退きわまった屈瑕は自害した。

 生き残った兵隊を率いて逃げ戻った将軍たちは楚の武王に罪を詫びた。楚の武王は、自分の不徳の致すところであり、将軍らに罪はない、と言った。

 楚の武王は中原の覇権争いが成功しなかったので、小国が今後貢ぎ物を納めなくなることを恐れ、自ら随の国を攻めることに決めた。楚の武王は出征前、斎戒(飲食や行動を慎み、心身を清めること)を行おうとした時、鄧蔓に自分の疑問をぶつけてみた。「今まさにいざこの時だというのに、私の精神状態が少しも落ち着かないのはどういうことであろうか」

 鄧蔓はため息をついて言った「大王の人徳が薄いわりに多くの貢ぎ物を得、支払う代価が少なすぎるわりに多くの収穫を手にしました。事物は盛りがあれば凋落が必ずあるものです。太陽が昼まで昇れば必ず沈んでいきます。月は満ちれば必ず欠ける時があるのです。満ち足りて安定していれば必ず不安定な時がおとずれるのです。物事は極まれば反転するものです。これが天地自然の道理なのです」
 「前の王様はこの道理を知っておりました。大王様の心が不安なのは、前の王様がこの道理を分からせようとされているからなのではないでしょうか。かりに大王様が途中で薨去されたとしても、軍隊に損失がなければ国家にとって福となりましょう。」

 その後、楚の武王は行軍の途中、樠の木の下で亡くなった。まさに鄧蔓の予測した通りだった。

 鄧蔓は屈瑕の精神状態が不安定だったのを聞いて、負け戦になることがわかっていた。楚の武王の精神状態も落ち着かなかったので、楚の武王も行軍途中で薨去することが予測できた。鄧蔓は天道に精通していたので、状勢の変化の法則も理解することができた。前漢の文章家である司馬相如(しば しょうじょ、紀元前179年―紀元前117年)は「鄧蔓は仙人のように見通しがきく人である」と称えた。

前漢・劉向『列女伝』挿絵(パブリック・ドメイン)

注:
熊徹:漢の武帝である劉徹(紀元前157年―紀元前87年)の名字を避けたので漢代に熊通と呼ばされした。

(翻訳・夜香木)