「清明上河図」の一部(宋・張択端;イメージ:Wikimedia / パブリック・ドメイン)
唐王朝と宋王朝は中国の歴史上最も豊かな時代であり、休日が最も多かった2つの王朝でもありました。
古代中国では、現代のような忙しい生活はなく、休暇は既に先進国のレベルを超えているという分析もあります。それでは中国古代の休日について詳しく見てみましょう。
法定休日は漢王朝で始まった
中国最古の法定休日は前漢の時代に始まりました。当時の休日は「休沐」と呼ばれ、「休」は休息、「沐」は入浴の意味でした。漢代の法律「漢律」には「吏員五日一休沐」と規定され、役人は五日働くごとに一日休みを取ることができました。通常の休日のほか、夏至と冬至も5日間休暇を与えられました。 さらに役人には葬儀休暇と帰省休暇がありました。皇帝の誕生日などの特別な行事の時には三日間の休暇があるため、漢代には年に少なくとも73日の休日があると分かります。
休暇に恵まれた唐王朝
「休沐」の制度は唐王朝初期まで続きました。しかし唐の高宗皇帝の時代になると朝廷の仕事量が増えたため、10日間に一度休日が設けられるようになりました。毎月の上旬、中旬、下旬に休日があったため、「旬假(假は休日の意味)」と呼ばれました。
休日が10日に一度となり、漢代より休日が減ったように思えるかもしれませんが、実は年中行事に合わせた休日が多く新設されました。唐代では、春季と冬至、そして清明節の時にそれぞれ七日間の「ゴールデンウィーク」が設けられていました。また、中秋節と夏至には三日間、元宵節、中元節、盂蘭盆節、端午節、重陽節、三伏天などほぼすべての節気(季節の節目)には休日が定められました。
唐代には帰省休暇もありました。両親が三千里圏外に住んでいる場合には毎年35日間の休暇が与えられていました。両親が五百里圏外に住んでいる場合、毎年15日間の休暇が与えられました。子女の結婚休暇は9日間(移動に掛かる日時はカウントされない)、近親者の結婚休暇は5日~1日と定められていました。
それだけでなく、5月には15日間の農繁期休暇があり、9月には冬服を作る準備のために15日間の休暇がありました。また、最長100日の病気休暇も認められていました。親の葬儀がある場合には喪に服するための休暇があり、文官は3年、武官は百日とされました。また先生が亡くなった時にも3日間の休暇がありました。このように、唐代の休日は100日を超えていました。特筆に値するのは、唐代の皇帝と孔子、老子の誕生日にも数日間の休暇がありました。
休日が最も多い宋王朝
宋王朝は中国史上最も多くの休日を持つ王朝であり、唐の「旬假」の制度を受け継ぎました。「天棋節」のような新しい休日創り出したばかりでなく、5つの「ゴールデンウィーク」がありました: 元日、正月、寒食、天慶、冬至にはそれぞれ7日間の休暇があり、聖節、上元、中元、夏至、臘月は3日間休暇が取れました。 このように、宋王朝期の休暇は「旬假」の36日に行事休暇の76日を加えて合計112日間ありました。
休日の減少が始まった元王朝
元王朝はまた、唐の「旬假」の制度を採用しました。漢民族の王朝ではないためか、多くの伝統的な休日がなくなりました。フビライ・ハンは次のように規定しました。「天寿と冬至には2日間休暇を与える。元正、寒食には3日間休暇を与える。旧暦7月15日、旧暦10月1日、立春、重午、立秋、重九、旬ごとにそれぞれが1日間休暇を与える。」このように、16日間の行事休暇に36日間の「旬假」を加えると、元王朝初期の祝祭日はわずか52日間でした。
その後、中書省の提案により、フビライ・ハンは月に3日間あった「旬假」を5日間に増やしたところ、年間を通して70日間以上の休暇がありました。
明・清の祝日
明王朝と清王朝では「旬假」の制度は廃止されました。 明王朝初期では、新年の5日間、冬至の3日間、元宵節の10日間、さらに毎月1日の休日があり、年間30日の休日がありました。明王朝の太祖・朱元璋が亡くなると、一か月の休暇は3日間に増やされ、休日は年50日に増えました。 清王朝では、春節と冬至と皇帝の誕生日という3つの休暇しか残っていませんでした。しかしアヘン戦争以降、西洋の影響を受けて、清の政府は日曜日を法定休日としました。
総合的に見ると、一年間の休日の日数はその時代の社会生活の繁栄度合いを代表するものだとも言えます。実際、唐王朝と宋王朝は中国史上最も繁栄した王朝であると共に、祝日が最も多い王朝でもあったのです。
(翻訳・柳生和樹)