一、中国における印章の歴史
中国最古の印章として、殷墟(前1300年頃〜前1046年)から発掘された三つの殷璽がありますが、それについては懐疑的な声が多いため、現在では、戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221年)の印章が最も古いものだと考えられています。
紀元前221年、秦の始皇帝は中国を統一した後に、中央主権体制の確立を推進し、貨幣や文字、度量衡の統一を行い、諸制度の改革と共に、官印制度も制定しました。皇帝が用いる印を「璽」(じ)、臣下が使うものを「印」と称し、印文に小篆(しょうてん)を用いることを正式に決め、印章の材質やサイズ、形、鈕式などで階級や役職を表すようになりました。
漢の時代になると、将軍の印は「章」と呼ばれるようになりました。そこから、「印章」という言葉が生まれたそうです。
漢の時代には、印章が広く使用されるようになり、皇帝からその信頼と統治の証として印章を諸国の王に授けられるようにもなりました。
二、印章文明の日本への伝播
1)国や支配者の権力の象徴とする印章
日本の印章の歴史は、中国から贈られた金印に端を発するとされています。北九州で発見された「漢委奴国王」と刻まれた金印(西暦57年)や、歴史書に記載された卑弥呼に贈られた「親魏倭王」の印(西暦238年)もその実例です。
ただし、当時の日本ではまだ漢字が知られておらず、印章を使う風習もなかったため、「漢委奴国王印」が実際に印を押す用途で使用されたかどうかには懐疑的な意見もあるようです。
印章が本格的に使われるようになったのは、大化の改新の後、701年、大宝律令の制定とともに官印が導入されてからだと言われています。当時、公にのみ公印の使用が認められ、私印は国家の許可が必要で社寺印として用いられていました。
平安時代に入ると藤原家などの貴族も私印を使うことが許されるようになります。
2)趣味や芸術としての篆刻の伝播
中国の隋・唐の時代では、書画などに用いる趣味・芸術のための印章が使われ始め、印章そのものが芸術として、書道の一環として、篆刻へと発展しました。
王羲之の『蘭亭序』。歴代の所有者の印章が押されている。
承応2年(1653年)に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧・独立性易(どくりゅう しょうえき 1596〜1672)は日本篆刻の祖とされています。独立性易は学識が深く、書を巧みとしており、中国にいた頃から著名でした。彼は隠元(いんげん 1654年に来日した禅宗の僧)に伴い江戸を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻、そして、初めて石印材に刻する印法を伝えました。
そして、延宝5年(1677年)に渡来した東皐心越(とうこう しんえつ 1639〜1696)は、徳川光圀に仕え、篆刻を多くの人々に伝え、独立性易とともに日本篆刻の祖とされています。
江戸時代後期以降、篆刻は大いに隆盛し、日本各地に広まりました。
三、現代日本における印章文化
古くから権力の象徴として印章が重用され、芸術としての篆刻も流行り、その後、歴史の変遷を経て、印章は一般庶民の生活を円滑に行うための制度として確立されました。それが今日の日本の印章文化です。
現代の日本では、生活や実用品として用いられる印章は、市町村に登録した実印、銀行などの金融機関に登録する銀行印、届け出を必要としない認印の3種類に大別されています。自分自身の名を書面に押印してその意思決定の証として、印章は日本の社会生活に深く根差しています。
一方、中国では印章の歴史が長く、書道などの芸術と結びついた独自の印章文化が形成されているものの、日本のように身近なアイテムとしての印章はほとんど民間に定着しておりません。
近時、新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、テレワークが推奨され、またペーパーレス化が進み、押印の慣習、慣行が逆風に晒され始め、日本の独自の印章文化も岐路に立っているようです。
(文・一心)