平陽公主は唐の太宗(李世民)の実の姉でありながら、戦場を駆け巡った女傑として、その名を歴史に刻んでいます。617年、実父・李淵が太原で挙兵すると、夫である柴紹(後の「凌煙閣二十四功臣」の一人)は、その下に駆けつけました。

 柴紹は平陽公主に対して言いました。「お父上の軍隊に加勢したいのですが、あなたをひとり残していくことが心残りです」。すると平陽公主はこう答えました。「私は安全なところに身を隠すことができますから、あなたはすぐに出発してください」

 夫の留守の間、難を逃れるため、男装に扮した平陽公主は荘園へと戻り、資産を売却。三ヶ月ほどで約5万人もの兵力を誇る軍隊を結集させました。そして、自ら隋王朝との戦の陣頭指揮を執ったのです。

 長安へと唐軍が進撃を開始する前、平陽公主は選りすぐった1万の精鋭を率いて弟の李世民と合流しました。その後、彼女と柴紹はそれぞれ軍隊を率いて戦い、長安を手中に収めました。これらの働きにより、李淵の長安入城は実現されたと言っても過言ではありません。

 西暦紀元618年、李淵は皇位に就きました。すると、太行山脈の西に位置する守備の要である「葦沢関」を平陽公主に任せたのです。

 彼女の義兵は、輝かしい戦功と厳しい軍律により庶民に敬愛されました。「李娘」と敬意をもって呼ばれ、その軍隊は「女性軍」と呼ばれました。「7万人の兵士、威厳の名声が関中に響き渡り」と、史書にも記されています。

 ある日、反乱軍が急速に迫ってきました。しかし平陽公主には兵力を集結させるための充分な時間がありませんでした。彼女は一計を案じ、すぐさま大量の穀物を集めさせ、いくつもの大鍋でその煮汁を作らせました。そして、闇夜にまぎれて、その煮汁を山谷に流したのです。

 翌日、その煮汁を発見した反乱軍は、大量の軍馬の小便と思い込み、攻撃を仕掛けることをあきらめました。これが「米湯が敵兵を退く」という言い伝えとなったのです。その功績を称え、「葦沢関」は「娘子関」に、改名されたと言われています。

 唐の創立6年目にして、彼女は亡くなってしまいました。その軍功を称え、皇帝の娘としてではなく軍人として、軍葬を執り行うことを高祖は決めました。こうして、平陽公主は中国史上唯一の軍葬された女性となったのです。

(翻訳・襄讓 / 編集・猪瀬)