宋・李公麟「五馬図」(一部)(パブリック・ドメイン)

 春秋戦国時代に、燭之武(しょくのぶ)と呼ばれた人がいました。鄭国出身で、名前は武といいます。燭の地で生まれたので、「燭之武」と呼ばれました。若い頃に弁舌が立つ燭之武は、鄭国を強くしたいという志を抱いていましたが、その才気を発揮する機会には一向に恵まれず、七十歳を過ぎても、鄭国の宮殿で馬飼をしていました。

 紀元前630年、晋国と秦国は連合し、鄭国に攻め入ります。敵軍がすぐさま鄭国の首都である新鄭の城下に迫って来て、城を包囲しました。

 鄭の文公は対策を協議するため、家臣たちを急いで招集しました。その中の佚之狐と言う大臣が、鄭の文公に「今、鄭国は未曾有の危機に瀕しています。もし主君が燭之武という者を使者として秦国へ派遣すれば、彼はきっと秦国に退兵してもらうよう、説得することができるはずです。もし秦軍が撤退できれば、晋軍も退いてくれるでしょう」と進言しました。

 鄭文公は佚之狐の提案を聞き入れ、燭之武を訪ねました。意外なことに、燭之武は、「私は若い頃から、他人より能力が劣っておりました。ましてや今は年をとった老人、できることは一つもありません」と言って辞退しました。鄭文公は、「あなたを早くに任用しなかったばかりか、国家の危機を目前とする今頃になってやっと訪ねているとは、まったく私の不徳の致すところです。しかし、鄭国が滅亡の危機にある今、あなたにとっても良い事ではありません」と、謝りながら言いました。燭之武は鄭文公の誠意ある態度を受け入れ、鄭文公の要求に応えることにしました。そして鄭文公は燭之武に大夫の官職を授け、秦軍の大営へ向かわせました。

 燭之武は秦の穆公に会いました。燭之武は単刀直入で、「貴国と晋国は鄭国を包囲しており、鄭国は亡国の危険が眼前に迫っております。もし、鄭国が滅亡することで貴国に利益でもあるとしたら、貴国の進攻は意味があると言えるでしょう。しかし、秦国と鄭国の間には晋国があります。貴国は鄭国を滅亡させたら、隣国の晋国を強くしてしまうことになりませんか?晋国が強くなればなるほど、貴国の実力は次第に弱まるのではないでしょうか?」と語りました。

 燭之武は続けて説得しました。「もし貴国が鄭国を守ってくだされば、貴国の東にある鄭国は、貴国の東方面の道中でおもてなしをする主人の役(後に「東道主」という熟語がここから由来します)を務める事ができます。貴国の使者たちは鄭国を通過する時に、鄭国は不足の物資などを供給することができますので、秦国にとってなんの不利のこともございません」

 「さらに言えば、貴国は以前、晋の恵公をお助けになったことで、晋の恵公は焦邑と瑕邑の2つの土地を貴国に譲渡することを承諾したそうです。しかし、晋の恵公は早朝に黄河を渡った途端、夜にはそこで軍隊を配置し、貴国に対する防御を行いました。あちこち討伐をする晋国は、満足して侵攻をやめる気はないのではないでしょうか?もし鄭国が滅亡すれば、晋国がさらに強くなるだけで、結局不利になるのは貴国となります。くれぐれも、ご熟考をお願いします」と、燭之武は言いました。

 秦の穆公は燭之武の話に一理があると思い、鄭国との同盟を締結しました。そして翌日には、秦軍は鄭国から撤退し、秦国に戻りました。晋の文公は秦の穆公の軍隊が撤退したのをみて、同様に撤退しました。

 燭之武は人生のほとんど、馬飼をしていました。兵が城下まで迫って来た国家の危難の際に大役を任され、七十歳を過ぎてようやく才能を発揮する機会を得ました。知恵をもって秦国を退軍させ、切羽詰まった鄭国を守ることができました。

 燭之武はどうやって秦の穆公を説得し、退兵させることができたのでしょうか?彼は相手のことを第一に考え、相手の身になって考えたからです。秦国にとってどうするのがベストかを考えたほか、秦国と晋国の間の摩擦も着眼しました。さらに、燭之武は卑屈にならず、またおごり高ぶらず、弁舌と知恵を発揮することで、自分の誠意と真心が相手に伝わり、国家を存亡の危機から救うことができたのです。

 人間は一人一人、異なる運命が定められています。若くして群を抜いて頭角を現す人もいれば、年をとってからようやく自分の才能を表す人もいます。燭之武はまさに後者で、晩成する大器そのものだと言えるでしょう。

出典:『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』

(文・古風/翻訳・夜香木)