三国時代、多くの名将がいました。たとえば、関羽、張飛、典韋など、一人で百人の敵を相手にしており、並外れた実力を備えた勇猛な武将が多くいました。しかし彼らはすごい実力を持っていたにも関わらず、やはり呂布には及びませんでした。
方天画戟(ほうてんがげき、古代中国の武器)を意のままに操る呂布は、「三国時代随一の戦神」と称賛されています。三国時代随一の美人として称賛される妾の貂蝉と合わせて、三国で最も人気の高いカップルとも言われます。話が呂布に及ぶと、人々は「人中の呂布、馬中の赤兎」を思いつくでしょう。すなわち、人の中には呂布という傑出した勇者がおり、馬の中には赤兎という天下の名馬がいるということです。また、中国の民間に伝わっている「三国猛将系譜」で、「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛」と言われています。つまり、三国で武芸に優れた武将として、一位の呂布が、二位の趙雲、三位の典韋、四位の関羽、五位の馬超と六位の張飛を凌駕し、揺るぎない地位を保っています。
しかし、史料で記録された戦では、呂布は有名な敵将を討ち取ったことが一度もないようです。「無双の戦神」という名は本当なのかと、疑わずにはいられないかもしれません。ここで、「無双の戦神」の由来を紐解いていきましょう。
まず、呂布の弓術の凄さを知れば、彼がどんなにすごい人物なのかが分かります。
建安元年(紀元196年)、紀霊は袁術の命令により、兵を率いて劉備を攻めようとしていました。劉備は呂布に助けを求め、呂布は自ら前線に出ました。当時、呂布の名声は十分響き渡っていました。紀霊は呂布が劉備を支援すると聞くと、そうやすやすとは侵攻を行えませんでした。呂布は劉備と紀霊を自分の兵営へ客人として招き、酒宴の席で、「玄徳は私の賢弟です。現在彼は皆さんの軍隊に囲われており、私は急いで彼を助けたいと思っております。生まれつきの性分で、私は他人の争い合いを見るのが嫌いで、紛争を解決してあげたいだけなのです」と紀霊側の人たちに言いました。承知しない紀霊を見て、呂布は皆を兵営の門まで連れて、戟(げき)を立たせました。「みなさん、ご覧になってください。私は今から戟の横刃を弓矢で当ててみます。もし一発で射当てることが出来たら、皆さんは直ちに侵攻を止めていただき、お引き取りをお願いします。もし当たらなければ、皆さん、劉備と共にお残りになって、決死の戦いを続けてください」と言った直後、呂布は弓矢を放つと、果たして小さな戟の横刃に当たりました。その場にいたすべての人がとても驚き、みんなして呂布を褒め称えました。後世に語り継がれる「轅門射戟(えんもんしゃげき)」の話です。
弓術以外、呂布が三国一の武将と言われたのは、生まれつきの人並み外れた腕力でした。「轅門射戟」のように、200歩(約140メートル)程の距離から、小さな戟の横刃に当てることができます。これは十分にすごいことですが、それだけではありません。戦場において、呂布は少しも傷づくことなく、敵陣を思いのままに行き来することができました。しかも、史書の記載によると、呂布の方天画戟は非常に重くて固い材料で作られたもので、並みの人間ではとても武器として扱えるものではなかったのです。
この凄まじい実力の持ち主である呂布が、三国時代の名将を討ち取ったことがない理由は、彼に挑戦する勇気のある者がほとんどいなかったからだと言えるでしょう。ご存知のように、武将の気性というのは激しいものです。しかし、多くの武将は呂布の名を聞いただけで、呂布の姿を見ただけで、塩で萎える青菜のように意気消沈してしまいます。張飛だけは、呂布を「三姓家奴(三人の主君の奴隷)」と皮肉っていました。その張飛とて、虎牢関の戦いで、呂布と単独で数十戦交えましたが、やはり勢いばかりで力足らずでした。もし関羽の到着が少しでも遅れていたら、張飛はとっくに傷を負っていたでしょう。呂布は劉備、関羽、張飛の三人から包囲された時でさえ、依然無傷のまま、落ち着いて包囲網から撤退できました。この「三英戦呂布」の話からも、呂布の実力が窺えるのです。
無謀とも評価された呂布は、桁違いの腕力と弓術、そして豪気で、正真正銘、三国時代無双の武将と称えられます。呂布とその武勇伝は、これからも語り継がれて行くことでしょう。
(翻訳・夜香木)