陸羽(りく・う、733年 – 804年)は、竟陵(きょうりょう、現在の湖北省天門市)出身の唐王朝期の茶学家です。またの名を疾、字は鴻漸(こうぜん)、号は竟陵子、桑苧翁、東岡子及び茶山御史と称しました。茶に生涯を捧げ、茶に精通している陸羽は、世界初の茶の知識をまとめた『茶経』を著述したことで名を馳せ、茶仙、茶聖、茶神などと呼ばれ、祀られています。そんな陸羽の生涯を簡単に紹介していきます。
寺院に捨てられ、寺院を逃げ去る
『新唐書』と『唐才子伝』の記載によると、陸羽はさえない容貌で、3歳の時に捨てられました。竟陵龍蓋寺の智積(ちせき)禅師は、石橋の下で捨て子を拾い、寺に連れて帰りました。その子に「陸羽」という名前をつけ育てました。智積禅師は、陸羽を弟子にして、将来の後継ぎにしようとしました。しかし、寺院の厳しいしつけに耐えられず、陸羽は寺院から逃げ出そうと思うようになりました。
紀元745年、12歳の陸羽は、自分の抱負と夢を叶えるために、寺院から逃げ出し、小さな劇団に入りました。しかし、陸羽の顔がさえず、吃音でしたので、あまり舞台に登ることはなく、脚本を書く仕事しかもらえませんでした。それでも、陸羽は一生懸命働きました。勤勉さ、優しさ、そして脚本家としての才能を現した陸羽は、劇団の仲間から深い信頼を得るようになりました。
李斉物の慧眼と崔国輔の支援
紀元746年、竟陵の太守(地方長官相当)の李斉物(り・さいぶつ)は当時13歳の陸羽と出会いました。李斉物は陸羽の芝居と才能を認め、自分の家に連れて帰り、詩と文を教え、のちに「火門山」の鄒先生の元で「経史子集」の勉学を薦めました。後に陸羽が有名な文人、茶学家になったのは、李斉物の数年間の教育のおかげとも言えます。
紀元752年、元礼部郎中(文部省長官相当)の崔国輔(さい・こくふ)が左遷され、競陵に来ました。その年、陸羽は鄒先生に別れを告げて、火門山から下りて、崔国輔と出会いました。陸羽は五言詩に長ける崔国輔から教えを受け、学問のさらなる成長を遂げました。やがて二人は文人として対等の付き合いをし、終生の友となりました。紀元756年、陸羽は茶の考察をするため、「巴山峡川(現在の神農架林区一帯)」への旅に出ることを決めました。そんな陸羽を支援するために、崔国輔は白毛のロバ、黒毛の牛、槐木製の書箱などの物資を陸羽に贈りました。崔国輔のおかげで、陸羽の茶の研究は更に高度なものとなりました。
水へのこだわり「陸羽の鑑水」
陸羽は、茶を点てる水に極めて拘りました。そんな陸羽に関する逸話が様々な古典に記載されています。唐王朝期の『煎茶水記』で、著者の張又新は「陸羽の鑑水」の逸話をこのように記しました。
唐の代宗の時期、李季卿は湖州刺史として赴任していく道中、揚州を通ったときに陸羽と出会いました。茶道に精通する陸羽の名を慕う李季卿は、船を泊め、陸羽と親しく話し込み、信頼できる軍士に命じて、川奥の「南零水」を取りに船で行かせました。
「南零水」は、現在の江蘇省鎮江市一帯の揚子江の奥の中冷水です。唐王朝期の愛茶家の劉伯芻が定めた「最も煎茶に相応しい七つの名水」の第一位でした。そのような「南零水」ですが、しかし、水の流れが激しい川奥の渦の位置からしか取れず、汲むのがとても難しいのです。
やがて水が届きました。茶道具を整えていた陸羽は、柄杓でその水を汲みながら、「江水は江水ですが、南零のものではなく、どうやら岸辺の水のようです」と言いました。
すると軍士が「私が船で川の奥まで行ったことは、たくさんの人が見ていました。嘘などつけるはずがありません」と言いました。
陸羽は黙ってその水を盆に汲み出しました。半分ほどになったところで、陸羽はいきなりその手を止めました。そして柄杓で水を汲みながら、「ここからは南零の水です」とうれしそうに言いました。
軍士は倒れそうになるほど驚愕し、叩頭して「私は南零源泉のところから、甕いっぱいの南零水を岸まで運ぼうとましたが、船が揺れて、半分ほどこぼしてしまいました。水の量が足りないのを恐れて、私は岸辺の水を汲んで足しました。陸先生の鑑定眼はまさに神業で、とてもごまかせません。大変失礼いたしました」と言いました。
李季卿とその場にいた数十人は皆、大いに驚愕し、陸羽の鑑水に感服しました。
皎然僧との出会いと『茶経』の誕生
紀元757年、陸羽は呉興(現在の浙江省湖州市)に足を運びました。そこで、杼山の妙喜寺の僧にして文人・茶人でもある皎然(きょうねん)との深い交友関係に恵まれました。
紀元760年、陸羽は呉興の山間に隠居しました。その間、陸羽はしばしば農家に訪問し、茶葉を採り、泉水を探り、茶の評論と研究を研鑽していました。4年後、陸羽は32州での調査資料をまとめ、『茶経』の初稿を完成しました。そして紀元780年、皎然僧の協力のもと、『茶経』を上梓し、出版しました。
陸羽の26年間の人生をかけて完成した『茶経』は、7,000文字を超え、3巻に分けられ、10章で構成されています。唐王朝までの茶に関する知識、作法、そして陸羽自身の所感や茶道が、上品で清浄な文風で『茶経』に綴られています。その内容は、茶の起源、種類、特性、製法、調理法から、喫茶器具、水の質、喫茶の風習、有名な茶産地、茶に関する典故、茶の薬用価値まで網羅しており、茶学の研究体系を構築しました。
紀元799年、66歳の陸羽は湖州城の青塘別業(せいとうべつぎょう)という庵に定住しました。楽しい晩年を過ごした陸羽は、紀元804年、72歳で死を迎え、杼山に葬られました。後世の人々は、陸羽を「茶神(茶の神様)」として祀り、特に茶葉の商売をする人は、磁器でできた陸羽の像を祀っていました。
陸羽が開拓した茶の研究は、後世まで伝わりました。茶神・陸羽の研究成果のおかげで、茶を飲む文化は中国の飲食文化のみならず、中国人の精神を象徴する文化の一つとなりました。日本の思想家である岡倉天心は、その著書『茶の本』の中で、陸羽を「茶道の鼻祖」と評価しました。
(文・雲中君/翻訳・常夏)