三国時代有名な武将・孫策(そん・さく)(パブリック・ドメイン)

 中国の三国時代に活躍した有名な武将・孫策(そん・さく)。呉郡富春県(現在の浙江省杭州市富陽区)出身で、字は伯符です。「覇王」と呼ばれる項羽に負けないくらいの剛力と勇敢さで、「小覇王」と呼ばれています。孫策は16歳の時から、父の孫堅とともに戦場に出ました。孫堅の死後、孫策は袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、わずか数年間で、会稽、呉郡、丹陽、豫章、廬江と廬陵の6つの郡を攻略し、後の呉の建国に大きく貢献しました。

 ある日、孫策は袁紹の使者・陳震をもてなしていました。ちょうどその時、道士の于吉が宴席の横を通りかかりました。于吉は「人々の病を治すありがたい仙人」として知られていた為、道中の民衆たちは于吉を出迎え、香を焚いて拝みました。拝もうとする孫策の武将も大勢いました。

 これを見た孫策はかっとなって怒り出し、「直ちに于吉を捕まえろ!」と周りの兵士に命令を出しました。

 于吉が逮捕された後、張昭を始めとする臣下の数十人から、孫策の母・呉夫人まで、于吉の釈放を請い、神様の守りを願いました。しかし孫策は、「あれは人心を惑わせる妖術使いだ。取り除かなければならない!」と言い放ちました。

 臣下の呂範は于吉の釈放を嘆願し、于吉に雨の祈祷を行わせました。そして于吉の祈祷が本当に雨を降らせました。雨の中で于吉を拝んでいる臣下と民衆たちを見て、孫策は嫉妬と激怒に操られ、「天候が人に動かせるわけがない!たまたま便乗した妖術使いを、あなたたちはなぜそこまで迷信するのか!」と叫び、剣を抜いて于吉を刺し殺しました。

 于吉が助けられると信じていた臣下たちはとても悲しみ、于吉の遺体を隠しました。しかし、翌日、于吉の遺体は消えてしまいました。

 一方、孫策は于吉を殺した後、一人でいる時、よく于吉の幻影がそばにいるのを見るようになりました。その幻影を払おうと、孫策は剣を抜いて空気を切るようになり、挙動がおかしくなりました。ある日、丹徒で狩猟をしていた孫策は、刺客の矢で顔を貫かれました。疲れ果てた孫策が自分の顔を見ようと鏡を覗くと、なんと死んだはずの于吉の姿が見えました。孫策が鏡を床に投げつけて絶叫し、体中の傷口が裂けて、まもなく死んでしまいました。享年26でした。

 顧邵(こ・しょう)は、呉の丞相となった顧雍の息子で、字は孝則です。顧邵は少年の頃から博識で知られており、四方から人が訪れ、名声は遠方にまで届きました。孫権はその名声を聞き、孫策の娘を顧邵に嫁がせました。

 そんな多才な顧邵ですが、神様を敬いませんでした。豫章太守となった後、顧邵は民衆たちの祭り活動を禁じ、さらには豫章の寺院や神廟を次々と取り壊しました。

 廬山の廟を取り壊す際には、豫章郡のほぼすべての人が、廬山廟を取り壊さないよう、顧邵を諫めました。廬山廟に祀られている神様は、風を2つの方向に分けることができ、周りの船が風に乗ってうまく航行することができるようにしてくれます。そのため、当地の民衆たちは皆、廬山廟に祈っていました。廬山廟を取り壊したら、祈ることができなくなるほか、顧邵自身にも災いがふりかかると、豫章郡の人は顧邵を諌めました。ところが、顧邵は全く聞き入れませんでした。

 廬山廟を取り壊したその夜に、顧邵はいつも通り読書をしていたところ、突然、訪問客が来る音がしました。顧邵は怪しく思って、扉を開けようとすると、閉じたままの扉が自らあいて、身体が大きく、鬼のような風格の人物が現れました。自分は廬山君であると名乗ったその人物を、顧邵は怖がらず、席を勧めました。廬山君も遠慮せず、腰掛けました。

 顧邵は『春秋左氏伝』を愛読していましたので、廬山君と二人で一晩中、『春秋左氏伝』について楽しく話し合いました。そのうち、灯が尽きてしまいましたが、顧邵は改めて点けず、『春秋左氏伝』の書簡を燃やして灯代わりとして、論議を続けました。

 気が付けば、おんどりが朝を告げ、日が昇る頃になりました。廬山君は暇を乞い、廬山の廟を元の通りに復元してほしいと熱心に頼みました。しかし、顧邵は笑って、話を取り合いませんでした。廬山君は怒って席を立ち、「三年の内に、廬山廟を復元してもらわないと、君は病気になって死ぬことになるだろう」と言いました。顧邵は笑いながら、左氏伝の論議を続けようとしましたが、廬山君の姿は見えなくなってしまいました。扉や窓は閉じたままで、開いた形跡もありませんでした。

 顧邵は廬山君のことを忘れ、廬山廟を復元しないまま、何事もなく3年間を過ごしました。しかし、廬山廟を取り壊して4年目になる数日前、顧邵は急に病にかかり、まもなく死去しました。享年31でした。

 赫々とした武功を持つ孫策は、道士を殺しました。博学多才な顧邵は、神廟を取り壊しました。妻の父親と娘婿の関係を持つ二人は、共に早世しました。神様を敬う周りの人に進言されても、特に顧邵には神様が直接に進言しても、頑なに神様に背く道を進みました。その結果、神様を敬わない二人は、悲惨な終焉を迎え、後悔する機会もありませんでした。

(文・古風/翻訳・常夏)