(イメージ / Pixabay CC0 1.0)
娘と公園に行く時、決まって迷路で遊んだ。
前まではいつも娘の手を繋いで、右往左往しながら出口を探したものだ。袋小路に入ってしまうと、私たちはいつも大笑いした。出口を見つけた場合も声に出して笑った。とにかく迷路は楽しい。しかし、娘が自分一人で迷路を歩きたいと言ってきたときは、ちょっと心配になった。もし出口を見つけられなかったときには怖がるかもしれない。娘はひとりでも大丈夫だと言ったので、冒険に行かせた。
迷路ではもう一人の男の子が遊んでした。迷路の真ん中には小高い丘がある。男の子のお父さんは土台に立ち、迷路全体を見渡して息子に指示を出した。娘はすぐにその男の子と一緒になって遊びはじめた。二人は迷路で走り回ったりして楽しい時間を過ごした。私は迷路の丘に立ち、高い所で子供たちを見守った。
実際私たちの指示は不必要だった。出口にたどり着けるかどうかは問題ではなく、迷路で走り回ること自体が楽しかったのだ。しばらくして娘が遊び疲れたので、家に帰りたいと言い出した。娘が出口の近くにいたので、しばらくそこで私を待つように言って、丘から下りた。
迷路に入ると、方向感覚はさっきのようにはっきりしなくなった。何とか出口を見つけたものの、娘はそこにいなかった。さっきまでそこに立っていたはずなのに、私の記憶違いなのだろうか。娘の名前を呼んでも返事がなかった。声が迷路にさえぎられてしまったのかもしれない。娘は今ごろ走り回って私を探しているに違いないと思った。
私が心配し始めたとき、さっきの男の子のお父さんが私に手を振って娘の居場所を教えてくれた。私と娘がはぐれたのを見て、高い所から私たちを助けようとしてくれていた。そのお父さんの指示に従って、曲がり角をいくつか超えて所、やっと娘を見つけた。そのお父さんに手を振って感謝の意を表し、娘と家に帰った。
迷路は一見大したものではないけど、一旦中に入ってしまうと方向感覚を失い、大人であっても迷路の中で娘を探すのは容易なことではない。しかし高台に立てば別だ。すべての道、すべての曲がり角がはっきり見える。それだけではなく、迷路の中の人に正確な指示を出すこともできる。
迷路には確かに「迷い」がある。だが高い所に立つとすべてがはっきりと見えてくる。このことは迷路だけではなく、すべてのことに通じる道理ではないだろうか。我々が困惑を感じるのは、物事の中に身を置いているからだ。もし自分を高めることができ、物事に深くのめり込まないようにすれば、真実が見え迷いをなくすことができるのだろう。
(翻訳・時葦瑩)