中国は、世界で初めて絹を使用した国で、「衣冠上国(いかんじょうごく)」と呼ばれたこともあります。漢王朝以降、絹織物を主とした中国の服飾と服飾文化は遥か西洋まで伝わり、龍袍や刺しゅうなどの中国伝統服飾の要素が世界を魅了しています。その素晴らしい中国の服飾文化を創った第一人者と呼ばれているのが、美しくて賢い女性・嫘祖(れいそ)です。
明王朝の古典によると、西陵氏の部族出身である嫘祖は、黄帝軒轅氏の妃でした。ある日、嫘祖は山の坂に生えている桑の木のそばに、見たこともない「果実」を見つけ、家に持ち帰りました。しかし、しばらく経つと、その「果実」から虫が次々と飛び出してきました。虫が産卵して、虫卵が幼虫に孵化しました。嫘祖は「果実」を見つけたところの桑の木から葉っぱを採り、幼虫たちに食べさせました。桑の葉に潜む幼虫たちの様子を見て、嫘祖は幼虫たちを「蠶」と名付けました。後世の「蚕」のことです。
葉っぱを食べ続けた数日後、蚕は糸を吐き出し、自分を包み込み、嫘祖が最初に見つけた「果実」の形になりました。嫘祖はその「果実」を「繭」と名付けました。そして、嫘祖は繭を偶然にお湯に入れたところ、繭から多くの糸が引き出せることを発見しました。その糸は手触りが柔らかく、引っ張ってもすぐには切れませんでした。
手先が器用な嫘祖は、その糸を織りなした絹の服を羽織ってみると、軽くて暖かく感じました。白だけの織物ではつまらないので、嫘祖は様々な植物の染料を使って絹を染めました。蚕とは違い、嫘祖は包み隠さず、蚕の飼育、繭の糸取り、絹の染織などの技術を周りの人たちに広めました。それ以来、獣の皮と木の葉を衣にする時代が終わり、服飾の歴史が始まりました。
「西陵氏の嫘祖が絹を発明した!」この話はまもなく神州の大地に広がり、他の部族からの縁談が続々ときましたが、嫘祖はすべて断りました。そんなある日、中原部族の首領・軒轅が西陵にやってきました。二人はお互い一目惚れをし、すぐさま恋に落ちて、結婚しました。
やがて、軒轅は神州の大地を統一し、黄帝になりました。嫘祖は黄帝の許可を元に、栽桑(さいそう)、養蚕、繰糸と染織の技術を神州の大地に広めました。そのため、嫘祖は後世に中国の服飾文化を創った第一人者と呼ばれ、「先蚕(せんさん)」いわゆる蚕の神として祀られるようになりました。嫘祖の故郷・西陵(今の四川省綿陽市塩亭県一帯)などの地では、今も「先蚕壇」「先蚕祠」などの古跡が残されており、「嫘祖文化祭」などの行事が行われています。
(翻訳・常夏)