(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

 私は鍵盤楽器が好きで、暇なときによくピアノを弾く。ただ音大出身ではなく系統的な音楽教育を受けていないため、いつも曲の表現が完璧ではないと感じていた。スマートフォンで録音しては聞き返し、どこを改善すべきかを探った。

 最近、新しい曲を習い始めたが、いくつかの小節が難しくうまく弾けなかった。繰り返し録音を聴けば聴くほど、いらいらが積もっていった。すでに最善を尽くしてもなお、その小節だけはスムーズに弾けず、改善の糸口が見つからなかった。

 音大出身の友人に尋ねてみたが、彼女は「うまくできているね、本当に素晴らしい」と褒めてくれた。友人がこう言ってくれたのは私を励ますため、そして、職業音楽家でない私がこのレベルに達すればもう十分素晴らしいと思っているためだと思った。歴然とした差を実感しながら、完璧に弾くことができない自分にもどかしさを覚えた。

 私は練習をいったんやめることにした。これ以上改善する見込みがないと感じ、脳に休憩を与えることにした。

 数日後、夕食を済ませ家族と団らんしていた時、突然が流れ始めた。私がこの間ずっと悩んでいた曲だ。メロディーは優雅で優しく、一つの物語を紡いでいるようで、私の胸に響いた。耳に入ってくる音に含みがある点に、この曲の真髄がある。

 スマートフォンで音楽を流していたのは私の子供だった。よく見ると、それは私のスマートフォンであると気づいた。間違いない。流れているのは、まさに私が練習する時に録音した曲だ。私はあっけにとられた。私の演奏はこんなによかったのか?

 数日前に録音を聞いたときはどうしても納得できなかった。演奏の欠陥は、白い紙にある汚れのようにひどく目立っていた。だが今リラックスして聞き直すと、まったく違うもののようだった。私が聞き取ったのは音楽の美しさだ。その瞬間、胸がいっぱいになった。

 時には、私たちは自分自身や他人に高い要求をしてしまう。心持は良くても、真剣になりすぎる、物事の一部に目を奪われかえって大局を見失うことがある。完璧を目指して録音を聞き返していた私は、音楽自体の美しさを完全に無視して欠陥のある音符しか聞いていなかった。この一件で、私は何事にも寛容の心が大切だと感じた。完璧などありえないのだ。全力を尽くしても完璧に弾けないいくつかの音符があっても、そのいくつかの音符があるために全曲を否定することはできない。

(文・青松 / 翻訳・清水小桐)