川辺で和尚さんが座禅をしていました。
和尚さんは、水の音が聞こえたので、目を開けると、一匹のサソリが川の中でもがいていました。
和尚さんは手を伸ばして、サソリを川の中から助け出しましたが、サソリの毒針に刺されてしまいました。和尚さんはサソリを川辺に逃がし、坐禅を続けました。
しばらくしてから、和尚さんは再び水の音が聞こえました。目を開けると、あのサソリがまた川の中に落ちていました。
和尚さんは再びサソリを助け出して、またサソリに刺されましたが、座禅を続けました。
またしばらくすると、同じことがもう一回繰り返されました。
隣にいた漁師さんは、「和尚さん、気づきませんか?サソリは人を刺すものですよ」と声を掛けてきました。
和尚さんは、「知っていますよ。3回も刺されましたからね」と答えました。
漁師さんは、「では、なぜサソリを助けようとするのですか?」と聞きました。
和尚さんは、「刺すのはサソリの本性ですが、慈悲を持つのは私の本性です。私の慈悲は、サソリが刺すことによって変わるものではありません」と答えました。
水の音が聞こえ、あのサソリがまたもや川の中に落ちました。
和尚さんは迷わずに、毒で腫れた手を川の中のサソリへ差し伸べようとしましたが、漁師さんに一本の木の枝を渡されました。和尚さんは木の枝を使ってサソリを水から助け出し、再び川辺に逃がしました。
漁師さんは、「慈悲を持つことはとても偉いです。しかし、サソリに対する慈悲は、自分に対する慈悲と矛盾しません。慈悲の仕方も考えるべきですね」と、微笑みながら言いました。
慈悲なる和尚さんと知恵のある漁師さん。二人とも、人を刺すサソリをどのように処置した方が良いのかが分らないようです。和尚さんを三回も刺したサソリは、ただ川辺に逃がされただけなら、きっとまた誰かを刺すでしょう。このように、他の人を危険に晒してしまう慈悲と知恵はただ、悪者を野放しにしているのと同じではありませんか?
「サソリ」の害を無視するのは、宗教や人権を言い訳にして法治の精神を忘れるのと同じではないでしょうか。「サソリ」のような悪者は、慈悲と知恵以外に、法治の精神も必要です。なぜなら、慈悲と知恵だけでは、悪者をうまく処置することができないからです。慈悲と知恵で悪者を善くすることはできるかもしれませんが、善人を有効に守るためには法治が必要です。そのため、慈悲、知恵、そして法治は、どれ一つも欠けてはなりません。法治が無ければ、社会は大変なことになります。慈悲と知恵が無ければ、人間性は大変なことになるでしょう。
おや、水の音がしました。さて、あなたはどうしますか?
(翻訳・常夏)