(絵:志清/看中国)

 「勇」は中華民族が講じる伝統的な美徳の一つです。この「勇」とはただの「たくましい」ことではなく、道徳と教養に深く関わります。是非の区別がつかない「勇」は望ましくありません。利を見て義を忘れることと、義を見て行動しないことも、「勇」ではありません。道徳に沿う「勇」こそ、古くから中華民族が称えてきた伝統的な美徳です。

 宋王朝期の文豪・蘇軾は次のように「勇」を論じました。「つまらない人物は、いったん恥をかかされると、剣を抜いて立ち上がり、命がけで戦うものだが、これは勇気とは言えない。世の中に真の勇気を持つ者は、突然侮辱されることがあっても驚かず、理由もなく恥をかかされても怒ることはない。なぜなら、その内心がとても強く、志すところがとても深遠にあるからだ」(※①)

 漢王朝期の有名な武将・韓信は、股くぐりで辱められた少年時代がありました。もし韓信があの時、侮辱されて我慢できず、剣を抜いて人を殺してしまえば、後の偉業を成すことができるはずもありません。状況に応じて我慢することは、勇者ならではの知恵です。

韓信の股くぐり(イメージ:大紀元)

 「勇」について、孔子も幾度となく論じたことがあります。

 「知者は惑わず、仁者は憂(うれ)えず、勇者は懼(おそ)れず」(※②)と、「勇」は「君子に必要不可欠な品格で、人生の最高の境地だ」と孔子は論じました。知恵のある者は、是非をはっきりできるので、迷うことがありません。仁徳を持つ者は、正しい行いを心掛けているので、悩むことがありません。そして勇者は、困難に直面しても驚かないので、恐れることがありません。この3つの品格のうち、1つだけ持つことも簡単ではなく、まして3つ全て持つことはさらに難しいのです。孔子自身もできていないと反省していますが、弟子の子貢は「夫子自道」と言い、「先生のお言葉は先生ご自身のことを言われたものだ」と言います。弟子から見ると、孔子は仁・智・勇を持ち合わせる人間なので、先生ができていないと仰るのであれば、この世にできている者がいないのと同然でしょう。

 孔子は「仁者には必ず勇気がある。しかし勇者が必ずしも仁者ではない」(※③)と言い、「仁」と「勇」の関係性を論じました。仁徳を持つ者は、正義のために勇敢に事に当たり、命すら惜しむことがないので、本物の勇気を持ち合わせています。一方、勇気を持っているように見える者は、正義のための勇気とは限りません。一時の感情で湧きあがった勇気は、仁徳に沿う勇気ではないので、本当の勇気とも言えません。

 さらに、「義を見て為(せ)ざるは勇無きなり」(※④)と孔子は言い、「義」と「勇」の関係性を論じました。行うべき正義を目の前にしながら、それを行わないのは、勇気がないのと同じことです。それだけではなく、かなり恥ずかしいことになります。
ここまで見ると、「仁」と「義」などの伝統的な美徳に沿った「勇」こそ、本当の「勇」と言えます。

注:

※①中国語原文:匹夫見辱,拔劍而起,挺身而鬥,此不足為勇也。天下有大勇者,卒然臨之而不驚,無故加之而不怒,此其所挾持者甚大,而其誌甚遠也。(『留侯論』より)
※②中国語原文:智者不惑,仁者不憂,勇者不懼。(『論語・子罕第九』より)
※③中国語原文:仁者必有勇。勇者不必有仁。(『論語・憲問第十四』より)
※④中国語原文:見義不爲,無勇也。(『論語・爲政第二』より)

(翻訳・常夏)