明人十八学士図(國立故宮博物院・台北 / パブリック・ドメイン)

 卞壺(べんこん)は晋代に国の為に身を捧げ、忠義を尽くした名臣である。一家は勇敢に身を犠牲にし、忠義と孝行を尽くしたと言われている。卞壺は朝廷の敗北を予見し、大臣の間違った戦略を正そうとしたが受け入れられなかった。負けると分かりながらも国に尽くした厚い忠義心は、後代の皇帝たちからも敬われた。

 卞壺は名門の出身で、父・卞粹とその息子を合わせ家族6人が政務に就いた。卞壺が二十歳の時には、すでにその名も知れ渡っていた。

 妻である裴氏の兄・裴盾は、徐州の長官であった。卞壺は裴盾を慕い、裴盾もまた卞に広陵の大臣代理を任せた。

 東晋が建立した後、卞壺は太傅(天子の師)となり、執政大臣に任命された。人から剛直と思われながらも奸臣を恐れず、朝廷の規律を保ち、汚職を取り締まることに力を注いだ。そのため卞壺は、皇族や左右大臣からも畏敬の念を抱かれたのであった。

 卞壺は真面目にこつこつと仕事を行い、国の風紀や世俗を正すことを己の任務としていた。彼は先見の明と、惑わしや流言に志を変えない強さを持っていた。ある者は卞壺にこう尋ねる。「気楽にしている姿を見たことがありません。いつも厳しい表情ですが、口の中に石でも入れているのですか?」と。

 大臣の庾亮(ゆりょう)は、将軍・蘇峻(そしゅん)の凶暴な気性と残忍さに辟易していた。「蘇峻はいずれ災いや変乱を起こす」と懸念した庾亮は、蘇峻を召還させる上奏書を朝廷に提出した。それは官職・大司馬に任命することにより、勢力基盤の拡大を牽制し、軍の指揮権を奪うというものであった。

 多くの家臣は庾亮の意見に同意したが、卞壺だけは反対した。卞壺は「蘇峻将軍は軍隊の統率力を自負しており、兵の駐屯地は都に近い。庾亮大臣の提案通りにすれば、蘇峻将軍は反乱を早めるだろう。そうなれば最悪の結果になることは火を見るより明らかである」と提言した。一方で卞壺は、蘇峻将軍の指揮権を徐々に弱めていくべきだとも主張した。しかし庾亮は卞壺の意見を受け入れず、蘇峻の指揮権を剥奪させる計画を独断で決定していったのだった。

 「この出兵で朝廷が敗北する」と卞壺は確信していたが、阻止する術はなかった。

 327年、蘇峻は庾亮を討伐するため、大軍と共に建康に進攻した。

 卞壺は、戦場で背中に大きな傷を負いながらも陣頭指揮を執り、勇敢に戦い抜いたが最期には命尽きてしまった。二人の息子、卞眕と卞盰は父が戦死したことを受け、父に追随するかのように敵陣に突入した。二人の息子もまた戦いの末、相次いで戦死したのだった。

 卞壺の妻・裴氏は息子たちの遺体を前に、悲しみのあまり号泣した。しかし息子の亡骸を撫でながら、「お前たちの父親は忠臣で、お前たちは孝行息子だった。私にはなんの無念などありません」と語った。そのことを聞いた将校・翟湯は、「この一族は忠孝の道を守り抜いた」と感服したという。

 裴氏が夫と息子の遺体を南京に埋葬すると、しばらくして晋安帝は卞氏の墓の修繕をさせた。

 1368年、朱元璋は明太宗となり、明王朝を建立した。即位後、明太宗は宮殿を建造する計画を立てた。その為、建設地に建っている墓地を移転させようとも考えていた。

 ある日、夢の中に見知らぬ婦人が現れた。その女性は麻仕立ての喪服を着て、墓の見守っているようだった。なぜか大声で笑う婦人を、朱元璋は奇妙に感じた。尋ねると、「私の夫は忠義を尽くして亡くなりました。息子二人も孝行を尽くして死にました。私は忠臣の妻であり、孝行息子をもった母親です。ですから何も悲しくなどありません」と、言い終えると煙のように消えてしまった。

 目が醒めた後、朱元璋は墓の主が誰であるかを調べさせた。夢に出てきた婦人は、卞壺の妻・裴氏だったと朱元璋は理解した。

 考えた末、朱元璋は卞氏の祠(ほこら)を建造して弔い、卞氏一族に爵位を与えた。

 卞壺親子三人はこの世を去った後、歴代帝王の尊敬をあつめた。

東晋帝
「天に従うほどの忠誠心と命を尽くさんばかりの孝徳。国の為に命を捧げたこの人物を尊敬しないことがあろうか?」

唐太宗
「卞壺の位を更に上げるべきである。色とりどりの旗を掲げ、忠義を尽くした功績を称える」

明成祖
「父親は君主の恩に報い、二人の息子は忍の心をもって、意気盛んに助け合いながら、同時に尽きた。千古の忠孝を清貧の一族が実行した」

清朝の皇帝が江南を視察したとき、卞公を祀る社を参拝し卞壺親子の祭祀を執り行った。壁には「凛然正気(剛直で凛然とした気風)」と書かれた額が掛けられていた。

(翻訳・夜香木)